まほろば事典


か〜こ

カラ…………朝鮮半島の釜山付近にあった任那(みまな)のことを加羅とも呼ぶが、そこに限らず、日本では漠然と海外の国のことをカラと呼んでいた形跡がある。のち、朝鮮のことも中国のこともカラと呼ぶようになった。この小説の場合も、必ずしも特定の地域を指す言葉としては用いていない。

(かん)…………朝鮮半島の南半分あたりに住んでいた人々を、当時韓人と呼んでいた。中国の戦国七雄のひとつであった韓国と、どういう関係があると当時の人が考えていたのかはよくわからない。現在の大韓民国はもちろんこの名称からとられている。半島は前漢の武帝の頃に中国の支配下に入り、いくつかの郡が置かれたが、やがて南半分は放棄された。その後80近い小領域に分裂してしまい、小規模な戦乱が蜿蜒と続いていた。3世紀には三韓と呼ばれ、現在の全羅道・忠清道あたりに相当する馬韓54国、慶尚南道あたりに相当する弁韓12国、慶尚北道あたりに相当する辰韓12国に分けられていたが、これは主に習俗や方言の差で、地域連合としてまとまっていたわけではないらしい。4世紀に入ってようやく統一の機運が高まり、馬韓地域は百済、辰韓地域は新羅として統一国家が誕生した。

(ぎ)・大魏(たいぎ)…………中国・三国時代の国のひとつ。大魏は美称で、普通単に「魏」と呼ばれる。220年、曹丕(そうひ)によって建国されるが、実際にはその父親の曹操が礎を築いたと言えるだろう。華北地方の広大な領域を持ち、三国の中では最強であった。しかし、現実問題としては四囲を敵に取り囲まれていたと言ってよい。5代45年、内憂外患に苦しんだ末、265年、司馬炎によって帝位を簒奪され、滅びる。後半は司馬一族がほとんど実権を握っていた。なお、正史「三国志」の中でこの魏について書かれた部分が「魏志」であり、その付録のようにしてつけられた「東夷伝」の中にある「倭人の条」が、有名な「魏志倭人伝」である。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)…………陳寿の記した正史「三国志」のうち、国のことを扱った「魏志」の中の「東夷伝」の末尾に記された「倭人」に関する記述を、一般に「魏志倭人伝」と呼ぶ。日本について記された最初の文献だが、2千字ほどという簡単な記述であり、聞き書きのため内容に曖昧な点や矛盾する点も多く、古くから多くの議論を呼び起こしてきた。特に固有名詞に関しては、当時の日本語の発音を当時の中国人が聞き取って、漢字を宛てたという段階を踏んでいるため、なんと読むのかわからないものが大半。そのため、語呂合わせに類する推論が星の数ほど生まれた。3世紀日本についての唯一の同時代資料で、他に検証する方法がないため、歴史学者のみならずアマチュアが大量に論争に参加しているのが特徴。中国人がはたして、東夷と蔑んでいた倭人の発音などをそんなに注意深く聞き取ろうとしたとも思えないのだが。

(くしろ)…………装身具の一種で、腕輪(ブレスレット)を意味する古語。各地で発掘されている。石釧(いしくしろ)、鈴釧(すずくしろ)などの種類があるが、とりあえず腕輪でありさえすれば釧と称して差し支えないようである。

国守(くにつかみ)…………ヤマト大国を盟主とする30余国の本来の首長を、この小説ではこう呼ぶことにしている。国津神というのは天津神(あまつかみ)に対する言葉で、天孫族に制圧された各地の土着の神々という意味で使われているが、古代においては神と神官と首長の区別はそれほどなかったと思われるので、人間について用いても差し支えないと考えた。魏志倭人伝に記された国々のいくつかに「官」と称されているものと同等のつもりである。

クマ…………魏志倭人伝に記された国々のうち、邪馬台国に服さなかったとされる狗奴国を、この小説ではこう記すことにしている。おそらく、その後も南九州にあって大和朝廷に抵抗した熊襲(くまそ)のことだろうという説が有力。なお「クマ」の語は、「熊」ではなく、辺境を意味する「隈」であろう。邪馬台国と何度も戦闘状態に入ったことが魏志倭人伝に記されている。

黄鉞大将軍(こうえつだいしょうぐん)…………古来より中国では、黄色は天子を象徴する色だとされている。おそらく古代中華文明の栄えた黄河に由来するのだろう。鉞(まさかり)は軍権の象徴。つまり、黄鉞大将軍とは、天子から軍権を全面的に委任された最高位の軍人に与えられる称号である。

黄巾ノ乱(こうきんのらん)…………後漢末に出現した「太平道」という宗教団体が中核となって起こった大規模な叛乱。「太平道」は道教の一派で、その頃次第に伝わってきていた仏教教団の存在に刺戟されて、それまでの民間信仰的だった道教をはじめて体系化・組織化したものと思われる。悪政と天災がうち続いたため、苦しむ庶民が次々と入信して急速に拡大した。ついに184年、教主・張角は、世直しのために後漢王朝を打倒する叛乱に踏み切る。叛乱軍は頭に黄色の布を巻いたことから黄巾ノ乱と呼ばれる。張角の病死によりなんとか収拾できたものの、この乱を通じて後漢王朝の統治能力の喪失がはっきりとし、群雄割拠の時代に突入する。

高句麗…………昔から日本では「こうくり」と読まれていたが、最近は韓国語の発音の「コグリョ」と読まれることが多くなった。松花江流域に扶余(ふよ)族の建てた国と言われる。前漢末期の紀元前37年頃に建国と伝えられるが、確実ではない。後漢末に遼東を支配した公孫氏によって圧迫され、その後魏の将軍毋丘倹(かんきゅうけん)によって国都を陥とされ、しばらく逼迫の時期が続いたが、313年に朝鮮半島の楽浪郡を滅ぼして半島北半を制圧。南の新羅・百済と鼎立して、朝鮮三国時代が到来する。以後、668年に唐に滅ぼされるまで、中国東北部の脅威となっていた。

公孫淵(こうそんえん)…………遼東地方(現在の遼寧省付近)に割拠した三国時代の武将。彼の父公孫康(こう)は、曹操に追われて逃れてきた、袁紹の息子の袁尚を斬って差し出し、曹操と良好な関係を結んだ。康の死後、弟の公孫恭(きょう)が跡を継いだが、ずっと魏の支配下に属した。この叔父を退けて当主となった公孫淵は、呉の孫権と結んで魏に叛旗を翻し、自らの領地を「燕(えん)」と称して自立を図ったが、238年、司馬懿の軍勢に敗れて、一族もろともに滅ぼされる。なお、倭の使臣は239年に洛陽に至る前は、この公孫淵のところに訪れていたことはほぼ確実である。

後漢王朝(ごかんおうちょう)…………「漢字」「漢文」「漢民族」など、中国そのものを指す言葉となった漢王朝は、始皇帝の開いた秦の滅亡の後を受けて、紀元前202年に高祖・劉邦によって開かれた。11代210年を経て、王莽に簒奪されるまでを前漢(西漢)と呼ぶ。西暦25年、漢の皇室の血を引くと称する光武帝・劉秀によって再建されて以後を後漢(東漢)と呼ぶ。後漢王朝の皇帝は、なぜかそのほとんどが短命で、後継者が幼いため、その生母の一族(外戚)や宮廷内の宦官が実権を握り、世の中をひっかき廻した。184年に起こった黄巾ノ乱を契機に完全に統治能力を失い、群雄割拠の時代を招いた。