ミステリーゾーン

シャーロック・ホームズ(6)
「あのひと」

 シャーロック・ホームズが女嫌いであったことはよく知られている。ほぼ間違いなく生涯独身を通しているし、日頃の言行からもそれは窺える。

 「ぼくがこれまで会った中でもっとも心を惹かれた美人は、保険金ほしさに三人の子供を毒殺して死刑になった女だったね」

 「ぼくならあの連中にはあんまりしゃべらないね。女ってやつは信頼できない。よほど立派な女でもだよ」

 「恋愛は感情的なものだ。すべての感情的なものは、ぼくが何物にも増して尊重している理性とは相容れないのだ。判断を狂わされては困るから、ぼくは一生結婚なぞしないつもりだよ」

 「女の考えることばかりはわからないからねえ。……女はほんの些細な行動の中に、大きな意味があったり、とんでもないことをやらかすから、調べてみればヘアピン一本のためだったり、カーラーのためだったり、まったく油断がならないよ


 そんな具合に、折に触れては女性への不信感を表明しているのである。
 女性のことを、信頼できず、油断がならない厄介者と見ていたことは間違いない。
 とはいえ、女性に対する態度が冷たかったというわけではない。ワトスン博士は、
 ──ホームズはその気になりさえすれば、いくらでも女性に取り入ることができる才能を持っていた。
 と述べている。おびえている女性の依頼人に、優しい言葉をかけて落ち着かせるということもよくやっているし、「恐喝者ミルヴァートン」の中では、敵の家のことを調べるために、気のいい鉛管屋に化けてミルヴァートン家のメイドのひとりをたらしこみ、数日のうちに婚約までこぎつけたりもしている。ちなみにもちろんこの婚約は履行されなかった。
 そんな具合に、女性に対しては常に礼儀正しく、慇懃な態度を崩さなかったのは確かだが、ワトスンとふたりきりになると容赦なく不信感を表明するのである。

 精神分析的に考えれば、おそらく母親から充分な愛情を注がれなかったためであろう。
 ヴィクトリア期の中〜上流階級の家庭では、子供の世話を召使いに任せきりという親も少なくなかったらしい。ホームズの母親がその典型的な例であったと考えても間違ってはいないだろう。兄のマイクロフト・ホームズも独身を通したところを見ると、やはり女性に対する不信が強かったのではないかと思われる。ふたりとも、両親について語ったことは一度もない。思い出したくもなかったのではあるまいか。
 ホームズがチェス嫌いなのもそこに起因する、と主張する研究者もいる。チェスの最強の駒はクイーンであり、母親を象徴すると考えるのである。ホームズがチェス嫌いであると明記した文章はないが、「隠退した絵の具屋」の中でチェスの名手を揶揄している箇所がある。

 ホームズがホモセクシュアルだったのではないかと勘繰る読者は多いようだ。「くちびるのねじれた男」の中でワトスンとダブルベッドで寝たという場面があるし、「瀕死の探偵」の中ではワトスンを隠れさせようとして、

「さあ早く。ぼくのためを思ってくれるんなら……」

と言っているのが、なんとなくラブラブな雰囲気を感じるというのである。
 もともと変人めいたホームズだけならまだしも、ワトスンもそれに応えて、禁断の関係を続けていたとまで勘繰る研究者も少なくない。ワトスンは少なくとも2回、正常な状況で結婚しているにもかかわらずである。その結婚は、ホームズとのホモ関係を隠すための偽装だったというのだ。
 同性愛者が世間体を取り繕うために結婚をする例は、確かに世の中にはままあることだ。しかしながらワトスンがそうであったとは私には思えない。最初の(2番目という説もある)妻メアリとの短い結婚生活はごく幸せそうで、メアリが同性愛者の夫を持って欲求不満を覚えていた形跡はない。「ボスコム谷の謎」では、忙しいからとホームズとの同行を渋る夫に向かって、

「最近顔色がよくないようよ。気分転換してきたら? それにあなた、ホームズさんとのお仕事と言えば、いつだってあんなに面白がってたじゃないの」

と薦めてさえいるのである。ホームズとワトスンの間にわずかでも疑惑があれば、妻としてはこんなことを薦めはしないだろう。ワトスンが妻をも完璧に騙していたと考えられなくもないが、嘘をつくのが下手な彼にはそんなことはできそうもない。
 少なくともワトスンの側はホモっ気はなかったであろう。
 ホームズの側はどうかというと、上記の言動に加えて、ホームズ自らが筆を執ったことになっている「白い顔の兵士」の冒頭で、こんなことを書いている。

 ──わが善良なるワトスンは、この頃別の所に妻と居を構えていた。知り合ってからあとにも先にも、これが彼の唯一の自分勝手な行動であった。私はひとりぼっちだったのである。

 この「妻」はメアリではなくて、おそらく1902年頃に再婚した別の女性らしいが、女なんぞにワトスンを奪われた悔しさが見て取れるようでもある。「私はひとりぼっちだったのである」などという言いぐさには、確かに嫉妬の念みたいなものが込められているようにも見える。
 その直前に、

 ──私が今まで多くのつまらぬ事件で、この旧友でもあり伝記作者でもある男と行動を共にしてきたのは、感傷や気まぐれからではない

 と予防線を張ってはいるが、多少の怪しさは残る。
 ややホモっ気に近いような愛情が全くなかったとは言えないかもしれない。しかしながら、内心どうであっても、ホームズとワトスンが実際に同性愛行動に耽っていたと考えるのは無理があるだろう。なんとなれば、彼らは47年間(1881年に「緋色の研究」で出逢ってから、最後の作品「ショスコム旧館」が書かれる1927年まで)以上というもの親密な交友を続けながら、ただの一度も「シャーロック」「ジョン」とファーストネームで呼び合ったことがないのである。アメリカ人なら、なんと他人行儀なことだと思うに違いないが、彼らはいかにもヴィクトリア期の紳士らしく、親しき仲の礼儀を決して失わなかった。一線を越えたとは信じられない。

 ホモ説をとるのは比較的アメリカ人が多いが、ホームズに恋愛をさせたがるのもアメリカ人が多い。相手が男だろうが女だろうが、性行動の形跡がないというのは、根が単純なアメリカ人には信じがたいのかもしれない。
 ホームズにはただひとり、「忘れがたき女性」がいたのは事実だ。常に「あのひと」なる尊称をもって呼ばれるアイリーン・アドラーである。
 この女性は、最初の短編「ボヘミアのスキャンダル」に登場する。1858年、ニュージャージーの生まれだそうだからホームズより4歳ばかり年下。スカラ座ワルシャワ宮廷劇場でプリマドンナを務めたオペラ歌手である。ボヘミア王の火遊びの相手でもあり、王がスカンディナヴィアの王女と結婚することになると、過去の情事を公表すると言って脅迫した。困り果てた王様がホームズに依頼しにきたのである。

 「あれは鋼鉄の精神を持った女だ」

 「彼女が余と同等の身分であったら……どれほどすばらしい皇后となっていたことであろう!」

 「申したであろう、あれがいかに迅速で、決断力に富んでいるかを。彼女は比類なき女王になったろうに……彼女が余の階級(レベル)の人間でなかったのは返す返すも残念だ」


 等々、王様はほとほと困り果てながらも、アイリーンへの賞賛の言葉を惜しまない。まだ大いに未練があるとおぼしい。この最後の言葉に対して、ホームズは

 「私の見るところ、彼女は実際、陛下とは水準(レベル)が段違いかと存じます」

 と、同じ「レベル」という言葉を使って辛辣に言い返している。
 アイリーンは、ホームズが周到に巡らせた計画の裏をかき、見事にホームズを出し抜いて逐電してしまうのだった。王様に依頼された、ツーショット写真の奪回も失敗してしまう。しかも心憎いことに、彼女はツーショット写真を隠しておいた場所に、自分のブロマイドを一枚残して行ったのだった。このブロマイド、ホームズが謝礼代わりに王様から貰っている。
 ホームズが失敗したことは何度かあるが、たいていは不可抗力でタイミングが遅きに失したというパターンである。他人との知恵の真っ向勝負に敗れたというのは、あとにも先にもこの時だけだ。アイリーン・アドラーは、ホームズを正々堂々と出し抜いた唯一の人間という栄誉を担っているのである。
 自然、ホームズにとっても記憶に焼きついたはずである。彼女のブロマイドを求めたのはまさに彼の嫌う感傷ではなかったか。

 「ボヘミアのスキャンダル」の冒頭でワトスンが、

 ──とはいえそれは、彼がアイリーン・アドラーに対し恋愛めいた感情を持っていたということではない。

 と明言しているにもかかわらず、ホームズがアイリーンを熱愛したと考える人は数多い。ホームズの浩瀚な伝記「シャーロック・ホームズ──ガス燈に浮かぶその生涯」を書いたベアリング=グールドもそのひとりで、ホームズはのちの3年間の行方不明時代、モンテネグロでアイリーンと密会したことにしている。アイリーンはノートン法学士と結婚して人妻になっていたはずなのだが、ベアリング=グールドはこの結婚が無効なものだったと主張している。そして、ホームズとアイリーンの間にできた子供が、なんとレックス・スタウト描くところの美食家探偵ネロ・ウルフであるという含みさえほのめかしている。
 さらにベアリング=グールドは伝記の最後で、死の迫ったホームズに
「アイリーン……」
などと呟かせるという、ちょっとハズカシイ場面さえ書いているのであった。
 ホームズとアイリーンの子供や孫を扱ったパロディも少なくない。そしてそれらはたいていアメリカ人作家によるパロディである。英国人作家はあまりそういうことをしないようだ。
 私自身としては、ワトスンの分析を信じたい。ホームズがアイリーンに抱いた感情は、恋愛ではなかったろうと思う。自分を出し抜いた相手への賞賛と、心地よい敗北感といったものではなかったか。ある種の感傷ではあったろうが、恋愛の対象と見たとは思えないのである。恋愛感情はなかった、というワトスンの明確な言明が、なぜこれほど多くの人々に無視されるのかよくわからない。

 アイリーン以外にも、ホームズに恋をさせたパロディは(主にアメリカ人の作品に)少なくない。
 ハードウィック夫妻「シャーロック・ホームズの優雅な生活」ビリー・ワイルダーの映画「シャーロック・ホームズの冒険」のノベライゼイション)では、ドイツの女スパイにメロメロになってしまうし、ウェルマン父子「シャーロック・ホームズの宇宙戦争」では、なんと下宿の主婦ハドスン夫人といい仲になっている。ハドスン夫人といえば、正典には具体的な描写はほとんど出てこないが、まあ一般的なイメージとしてはかなり年配の婦人というところだろう。ホームズより何歳か年下ということに設定したウェルマン父子の描き方はなかなか衝撃的であった。
 ともかく、アメリカ人という人種は、小説の主人公が恋のひとつもしないのは我慢ならないらしいのである。
 しかし、われわれ日本人がそれに迎合する必要はないと思う。われわれのメンタリティはどちらかと言えばアメリカ人よりは英国人に近いような気がするし、ホームズが女嫌いであったとしても別に奇異には感じないはずである。日本人の場合、女よりは仕事をとる、仕事の邪魔になるから女には眼もくれない、という人間を誰でもひとりふたりは知っているだろうし、理解することだってそれほど難しくないだろう。世の中には、性欲を仕事で昇華できる男もちゃんと居るのである。

 もっとも晩年に至って、ホームズの女嫌いも多少和らげられたようではある。「ライオンのたてがみ」の中で登場するモード・ベラミという田舎娘を、いやに好意的に語っているのだ。この物語は隠退後の事件をホームズ自身が書いたことになっているのだから、本音を言っているのに違いない。読んだ感じ、モード嬢はもちろんそれなりに魅力的ではあるが、

 ──もっとも完成された非凡な女性として、私の記憶に長く残ることだろう。

 とホームズに言わしめるほどの女性には思えない。アイリーンや、ワトスンと結婚したメアリの他にも、「ブナの木荘」(「ブナ屋敷」)のヴァイオレット・ハンターとか、「海軍条約文書」アニー・ハリスンとか、美貌と勇気を併せ持った若い女性は何人もホームズの前に現れており、モード・ベラミが彼女らよりも傑出しているわけでもない。
 やはり50歳を過ぎて、ホームズにも心境の変化が訪れたのだろう。それはほろ苦い悔悟の気持ちだったかもしれない。自分は仕事にかまけて、何か大切なものを忘れてきてしまったのではないかと振り返る余裕が、隠退後の平穏な生活の中で生まれてきたのではあるまいか。
 その辺をうまく捉えたローリー・キング「シャーロック・ホームズの愛弟子」なるパロディシリーズもある。サセックスに隠退後のホームズの「弟子」となった若い娘が主人公だが、ホームズの描写はだいぶ好々爺然としている。

 ワトスンの方は女性への賞賛をつねに隠さないし、女性の側から見てもワトスンは思いやり深い、頼れる印象を与えていたようだ。開業医として成功したのもそれが大きな理由となっていたと思われる。
 最初の妻メアリとの馴れ初めは「サインは“4”」(「四人の署名」)で詳しく語られているが、20世紀に入ってから再婚した相手についてはまったく触れられていない。
 メアリと構えた家は最初がパディントン駅前、そしてすぐにケンジントン街に移っている。再婚相手と居を構えたのはクイーン・アン街であるらしい。だんだん高級住宅街へ移って行ったようだ。この再婚相手についてはいろんな説が出されている。上記のウェルマン父子の「シャーロック・ホームズの宇宙戦争」では、これまた上記のヴァイオレット・ハンターだったことになっている。「高名な依頼人」に登場するヴァイオレット・ド・メルヴィルと主張する人もいるが、クイーン・アン街に越していたことはまさにこの「高名な依頼人」に記述があるため、どうも信憑性は薄い。
 近年のパスティシュ・シリーズとしてはもっとも評価が高い「シャーロック・ホームズの秘密ファイル」シリーズの作者ジューン・トムスンは、「ソア橋事件」グレイス・ダンバー説を採っている。女流作家らしいアプローチで、ワトスンの好みのタイプを考察し、事件の年代や結婚の時期なども配慮した結果の説で、なおかつワトスンが再婚相手についてまったく触れていない理由も明らかにしており、私としては結構納得できた。

 ちなみにコナン・ドイルは、息子が誰だか女性について話している時に、その女性が不美人であるようなことを口走ったところ、やにわに息子を張り飛ばし、
「よく聞け。世の中に“不美人”なんてものは存在しないんだ」
と怒鳴りつけたという。ヴィクトリア朝紳士らしい騎士道精神ではあるが、本当にそう思っていたのだとしたら、作家としてはやや困ったものだったかもしれない。確かにホームズものに出てくる女性は、いくぶん書き割り的で個性に乏しい場合が多く、それだから余計に「あのひと」アイリーンの存在が際立って感じられるのかもしれない。

(2002.3.18.)


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