ミステリーゾーン

明智小五郎
栄光なき「名探偵」

 世界の名探偵の代名詞といえばシャーロック・ホームズだろうが、これに対し日本の名探偵といえばまず名前が挙がるのは明智小五郎であろう。金田一耕助を挙げる人も多いだろうと思うが、やはり明智には「元祖」の風格がある。
 ところが、日本人なら誰でも知っているであろうこの明智小五郎の、海外での知名度はといえば、どうも心許ないものがある。海外の名探偵紳士録に明智の名が挙げられることはほとんどないのではないか。いくら推理小説が英米中心に発達したもので、評論家も他の国の作品にはなかなか眼が行き届かない傾向があるとはいえ、これはいかにもアンバランスであると言えよう。
 内外のミステリーを渉猟しつくした大家エラリー・クイーンは、日本の推理小説にも造詣が深かった。日本の推理小説ベストテンといったようなものもちゃんと数え上げている。その中で明智ものはわずかにデビュー作「D坂の殺人事件」が挙げられるにとどまっている。

 われわれ日本人にとっては残念なことながら、明智小五郎は──というより、われわれの想像する明智小五郎は、と言おうか──「本格推理の名探偵」とは言いがたいのである。ホームズソーンダイク博士ブラウン神父ポワロヴァンスH・M卿といった名探偵の系譜に連なる資格は、皆無とは言わないまでも非常に薄弱なのであった。
 だが、皮肉なことに、彼が「本格推理の名探偵」であれば、ここまでの国民的人気は博さなかったに違いない。明智は、名探偵殿堂から脱落する代償に、国民的人気を獲得したと言ってよい。どちらがどちらの代償であったのかは微妙なところだが。

 明智といえども最初からそんな具合であったわけではない。「D坂の殺人事件」では確かに独創的な切れ味を見せている。白黒の縞の柄の着物が鉄柵に重なって、ある人には白地の服に見え、別の人には黒地の服に見えたのだろう、という友人の推理を、心理学的観点から否定し、より高度な推論により真相に到達する明智の姿は、名探偵の面目躍如としている。
 江戸川乱歩は、当時有名だった講釈師の神田伯龍をモデルにして明智小五郎を造形したという。もじゃもじゃ頭で、よれよれの着流しに兵児帯を締めたうらぶれた外観は、むしろ後輩である金田一耕助と見まがうばかりだ。明智はこのスタイルで、「黒手組」「何者」などの事件を解決する。「黒手組」は暗号解読の話、「何者」は犯行の動機に新奇性を持たせた話で、すばらしい傑作とは言えないまでも、一応本格推理小説としての水準は充分に保っている。この調子で活躍して行けば、名探偵殿堂入りも夢ではなかったかもしれない。
 しかし、この時期の明智小五郎は、まだ広範な人気を獲得するに至ったわけではない。彼の活躍舞台は主に「新青年」という雑誌であり、これはどちらかというとマニアックな内容で、インテリ青年(最近この言葉も聞かなくなったなあ)を対象にしていた。大学進学率がせいぜい2、3パーセントの時代である。
 「新青年」は読者がまた執筆者になってゆくという態の雑誌で、いわば限りなく同人誌に近い営業誌であった。自己完結的に閉じられたサークルのようなもので、こういう場でいくら評価されようとも、広く人々に知られるというわけにはゆかない。
 残念ながら、その頃日本ではまだ探偵小説というものが市民権を得ていなかった。黒岩涙香などがわずかながらホームズものを翻案して発表したりしてはいたが、「探偵」という言葉に感じるニュアンスはむしろうさんくささであり、夏目漱石「吾輩は猫である」の中で、
 ──およそ探偵ほど下劣な職業はない。
 と書いたものである。探偵小説も何やらうろんで陰気な作り話としか思われていなかった。推理作家が長者番付に登場するような現代の感覚では想像もつかない状況だったのである。
 そのままであれば、明智小五郎は一部マニアに好まれるだけの地味な存在で終わったに違いない。ただしずっと後世になって再発見され、名探偵殿堂に名を連ねることになったかもしれないけれど。

 江戸川乱歩の不幸は、ポードイルウォーレスクイーンの役割を全部ひとりで背負わなければならなかったことだと言われる。
 ポーは言うまでもなく推理小説の鼻祖である。乱歩は日本における鼻祖となった。処女作「二銭銅貨」を編集者に送る時、彼は
 ──海外の探偵小説に伍するものと思われたなら掲載してくれ。
 と大見得を切っている。日本人にも立派な探偵小説が書けるのだということを示したかったのだという。そもそも江戸川乱歩という筆名自体がエドガー・アラン・ポーのもじりであり、彼は自ら、日本におけるポーの役割を果たそうと心に決めていたのだった。
 実際のところ、乱歩の資質は確かにポーに近いものがあったように思われる。何かというと陰気で、不健康で、不気味な雰囲気に寄りがちだったのはポーそっくりである。それが探偵小説というものに対する世間のイメージを悪くしているということを重々承知した上で、やはり常にそういう傾向にやむにやまれずひっぱられていたのだ。
 だが乱歩は、探偵小説を普及するドイルの役割をも兼ねなければならなかった。明智小五郎の創造は確かにドイルのホームズの創造に比較できる業績だろう。ドイルはむしろ陽性の作家であり、ホームズが大衆を惹きつけたのはその明朗な部分だったかもしれない。初期の明智ものを見ると、乱歩が性に合わない明朗さを無理して出しているのではないかという想いにかられる。探偵小説を普及するためには、性に合わないこともしなければならないと思っていたのだろう。乱歩は生涯、その種の義務感を負い続けた人だった。
 「新青年」で明智小五郎が人気になり、若い作家たちが次々と追随するようになって、乱歩は次の義務感を覚えたようだ。
 ──こんな狭いサークル内でやっていてもどうしようもない。探偵小説の面白さを、広く国民一般のものにしなければ。
 人々が気軽に探偵小説を話題にし、通勤の行き帰りにも探偵本を読む……当時英国で見られたそんな様子に乱歩は憧れ、あれを日本の風景にしたいと切望したのだろう。だが、日本の一般通念では、まだ探偵小説は、陰気で不健康でうさんくさく、男子たるものが読むべきものではないという感覚が強かった。
 そこで乱歩は、エドガー・ウォーレスの役割をも引き受けなければならなかったのである。

 ウォーレスは日本ではほとんど読まれていないし、それこそ彼の作品に出てくる探偵が名探偵殿堂に名を連ねることもない。20世紀初頭、厖大な量の通俗探偵小説を書き飛ばした英国の作家である。トリックなどにはほとんど頓着せず、ただただハラハラドキドキさせて、悪人をこらしめてめでたしめでたしとなる。
 まさに「書き飛ばした」という表現がぴったりな作家なのだが、しかし探偵小説というものを本当に庶民の娯楽にしたのはウォーレスなのだった。あるマニアックなジャンルを一般に認知させるには、必ずこういう、マニアからは軽蔑されるが俗受けする作り手が不可欠なのである。近年のマンガやアニメでもそういうことがありそうだ。
 江戸川乱歩は敢然としてウォーレスの役割を果たした。そしてそれは成功した。戦前最大の国民的雑誌であった「キング」に、乱歩は次々と明智小五郎ものの小説を連載したのである。
 ──黒岩涙香にアルセーヌ・リュパンもののテイストを加えたようなものを。
 と乱歩は割り切った方針を立てて、それこそ「書き飛ばした」。
 ちなみに涙香は当時は通俗文学の大御所と見なされていた。上にもホームズものの翻案を発表したということを書いたが、古今東西の名作を講釈調に翻案するのに長け、「レ・ミゼラブル」「噫無情」「モンテ・クリスト伯」「巌窟王」と訳して日本に紹介したのも彼である。要するにそういう通俗文学的な語り口にリュパン風の派手な仕掛けを施そうとしたわけである。
 このシリーズでは、乱歩は新しいトリックなどなにひとつ産み出さず、既成のトリックを組み合わせて使うにとどめた。初期の明智小五郎の緻密な心理考察などどこへやら、抜け穴や気球などの粗雑だが派手な物理トリックばかりが量産される。
 そもそも明智の風貌すら変わっていた。貧乏書生然とした初期のスタイルとは打って変わって、パリ留学してきたことにして、白い麻のジャケットが似合うぐっとお洒落なスーパーヒーローとして復活したのである。要するに天知茂氏などがテレビで演じていたあのスタイルである。
 これに対する敵も華やかだ。アルセーヌ・リュパンその人が黄金仮面をかぶって日本に出現するし、蜘蛛男吸血鬼魔術師一寸法師、それに美しき女賊黒蜥蜴などなど、ほとんどショッカー怪人のごとき錚々たる好敵手が次々と登場する。
 そしてたいてい可憐な美女がからみ、一度くらいは敵につかまって素っ裸に剥かれる読者サービスのお色気シーンがお目見えする。
 「新青年」時代の仲間たちのしかめっ面をよそに、「キング」の読者はやんやの大喝采。乱歩独特の文体ともあいまって、名探偵明智小五郎はまさに国民的ヒーローとなったのである。
 だが、それゆえに、明智は「本格推理の名探偵」の座から滑り落ちなければならなかった。単なる「紙芝居の主人公」、黄金バット快傑黒頭巾と同列の安っぽいヒーローと堕してしまったのだった。

 乱歩が果たしたクイーンの役割は、ここに述べるまでもなかろう。推理小説に関する書誌学者としてエラリー・クイーンに比肩しうる人物は、日本では乱歩しかいない。多忙な執筆活動中、乱歩は厖大なエッセイも発表して、推理小説の普及に努めた。海外作品の紹介にも非常に力を入れ、知られざる短編などを精力的に蒐集し、浩瀚な全集として出版した。ディクスン・カーが日本で知られるようになったのも乱歩が持ち上げたからである。また、多くの後進作家を育てた点でもクイーンと共通する。ポーとクイーンの役割については、江戸川乱歩という人の資質によく適っていたのではないかと思う。

 明智の話に戻ると、まだその役目は終わっていなかった。彼には最後の、そして最大の使命が残っていたのである。
 明智小五郎の名を、真に「日本人なら誰でも」知るものとしたのは、この最後の役目を果たしたからに他ならない。
 それは、児童文学への進出である。
 宿敵・怪人二十面相
 そして小林少年を団長とするわれらが少年探偵団
 このフォーメイションこそ、明智小五郎の名を不朽のものにしたと言える。
 「キング」で、大人の読者に対する啓蒙が充分に進んでいたから、子供向けの探偵小説などという、その半世紀前だったら到底許容されなかったであろうシロモノも、わりに簡単に受け容れられたのだった。
 明智と怪人二十面相の対決は、むろん「リュパン対ホームズ」になぞらえたものであろう。少年探偵団はホームズに協力する街の浮浪児集団「ベーカー街遊撃隊(ベーカー・ストリート・イレギュラーズ)」からの発想かもしれない。いずれも独創的とは言えないが、子供たちを惹きつけるに充分な設定である。
 不気味な怪人二十面相の予告状。予告された時間が刻々と迫るサスペンス。あっと驚く盗みの手口(どうも、たいてい怪人二十面相は、狙った獲物を予告した日時より前にあらかじめニセモノとすり替えておくという、フェアとは言いかねる手ばかり使っていたようだが)。しかし明智小五郎が登場して怪人二十面相の手口を快刀乱麻を断つが如く解き明かし、さらに別人に変装してその場に混じっている二十面相の正体を鮮やかに暴露する。二十面相あわてず騒がず、
 「ハッハッハ、よくぞ見破った、明智君。しかしおれをとらえることはできないのだよ」
とうそぶいて、奇想天外な脱出を試みる。
 ワンパターンといえばワンパターンだが、この物語に心ときめかせなかった子供が居るだろうか。
 物語のラストで、追いつめられた二十面相は逮捕されたり自爆したりするが、必ずまた現れるのである。明智小五郎と怪人二十面相の闘いは、永遠の「光と闇の闘争」の象徴としてわれわれの幼い心に刻みつけられた。
 ちなみに乱歩は最初「怪盗二十面相」としようとしたところ、子供向きの小説のタイトルに「盗む」という文字はまずかろうとクレームがついて「怪人」に改めたらしい。もちろん「怪人二十面相」というフレーズの方が、何かこの世のものならぬおどろおどろしさが感じられて、ずっとよろしい。
 少年探偵団シリーズに夢中になった子供たちは、推理小説読者の予備軍ともなった。赤川次郎西村京太郎がこれほど多くの読者を獲得しているのは、江戸川乱歩が打っておいた布石のおかげであると言ってよい。
 乱歩が夢見たように、今や日本ではごく普通の話題として推理小説が採り上げられ、電車の中で推理小説の文庫本に眼を通す人も少しも珍しくなくなったのである。自分の好みや資質を曲げてでも乱歩が目指した推理小説の普及は、完全に成し遂げられた。泉下の乱歩ももって瞑すべきであろう。

 乱歩は繰り返し
 「本格の長編を一編だけでよいから書きたい」
と言っていたという。彼の本格ものは短編ばかりであり、長くて中編というべき「陰獣」くらいだった。
 「陰獣」はそのタイトルの字面や扱う素材から、どちらかというと「変格」と見なされがちだが、推理の過程は充分に論理的であり、さらに「疑わしい解決」という点ではバークリー「毒入りチョコレート事件」に先行している。相当に近代的な推理小説だった。乱歩はこの作品を最後に、「キング」の冒険活劇の世界に入ってゆくのである。
 戦後になって、ようやく本格推理長編「化人幻戯」が発表された。起用された名探偵はもちろん明智小五郎である。初期の頃見られた心理分析もなかなか冴えを見せている。
 だが残念ながら、この作品は本格推理小説としてはさほどの出来ではなかった。
 ──さんざん期待させておいて、できたのがこれかい。
 中島河太郎氏も匿名でそんなような読後評を書いている。
 私も同感である。トリックがどうこうというより、中盤で明智が登場した時点で、それまで探偵役のような顔で事件を切り回していた人物が真犯人であろうと容易に察しがついてしまったのである。探偵が明智でなければもう少し錯綜したかもしれない。シリーズ・キャラクターを使う場合のデメリットであって、プロットの敗北と言ってよい。
 江戸川乱歩は、ついに「本格長編作家」としては失敗に終わった。
 明智小五郎も、「本格ものの名探偵」としての栄光はついにかちえずに終わってしまった。初期の3つ4つの短編だけではとても不充分なのである。

 だが、それがなんだというのだろう。
 明智小五郎と怪人二十面相は、幼年時代の胸のときめきとともに、全日本人の共有財産となっている。繰り返し映画に、ドラマにリメイクされている。西村京太郎のパロディ「名探偵シリーズ」ではポワロ、クイーン、メグレと共に明智が活躍するし、北村想「怪人二十面相・伝」なるパロディも書かれた。「グリコ・森永脅迫事件」では犯人が「かい人21面相」を名乗った。いずれも明智小五郎が、怪人二十面相が、日本を代表する名探偵&怪盗であると誰もが認めているから、そういうこともできるのである。
 それを考えれば、明智が「本格ものの名探偵」ではなかったなどという事実なぞ、取るに足りないことのように思えてこないだろうか。

(2003.1.5.)


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