三善明氏の訃報

 三善晃氏の訃報が伝えられました。
 この数年くらい、もうほとんど連絡もつけられない状態だという話を編集者や合唱指揮者などから聞いていたので、意外な気はしません。時間の問題ではなかったかと思います。80歳だったそうですから、まあまあ頑張ったと言えるのではないでしょうか。もともと、あまりお丈夫そうな雰囲気の先生ではありませんでした。
 私は三善先生の謦咳に接したことはほとんどありません。学生時代の合唱の授業で、『子どもの季節』だったかを練習したことがあって、その時に合唱の先生が授業に三善先生を招いて話をして貰ったことがあります。直接お目にかかったのはその時だけだったのではなかったかと思います。お目にかかったと言っても、私は数多くの学生の中のひとりに過ぎませんでしたから、もちろん三善先生のほうでは私のことなど知りませんでした。
 合唱の先生の意図としては、当然、演奏上の注意などを言って貰いたかったのでしょうが、私が憶えている三善先生の言葉は、次のようなものでした。
 「ぼくはですね、小さい子供の、あの、首の後ろの、ぼんのくぼって言うんですか、あそこのくぼんでいるところを見ると、もうたまらなくて。いや、あなたがたくらいの齢になるともうダメですよ。小さい子のあそこを見ると、なんというかこう、胸がキューッとしちゃうんですね」
 作曲家というものが多かれ少なかれ変態であると悟ったのはその頃でした。むろん、私自身を含めての話ですが。

 作曲家三善晃の名前は、大学に入る前からもちろん知ってはいました。私が持っていた音楽之友社版の『日本のソナチネ』という本の最後のほうに、「組曲『こんなときに』」という作品が載っていました。ソナチネじゃないじゃないかと内心ツッコミを入れていたのは秘密です。
 非常に演奏が難しいピアノソナタがあることも知っていました。長岡敏夫氏の『ピアノの学習』という本があって(現在は絶版)、主要なピアノ音楽の簡単な解説と共に、15段階に分けた難易度がつけられているのが便利で、中学の頃から大学に至るまで大いに活用していましたが、邦人作品もわずかながら採り上げられていました。三善晃のピアノソナタは、その中でも「上5」、つまり最高難度の作品として扱われていたのでした。私はある時期、邦人のピアノソナタにあれこれ挑戦してみたことがあり、平尾貴四男矢代秋雄奥村一林光原博などの作品を入手して練習しましたが、三善ソナタには手が出ませんでした。たぶん入手できなかったのだと思います。
 全音から出ていた『シェーヌ』というピアノ曲は、結局買わずに終わりました。薄いわりに高くて、高校生が買うには少々躊躇したのではなかったかと記憶しています。
 私は高校時代までは興味がピアノ曲に偏していたので、三善作品として知っているのはそのくらいでした。ああそれから、世界名作劇場『赤毛のアン』の主題歌の作曲者としても認識していました。
 合唱界における存在の大きさを知ったのは、大学に入って、合唱団に参加しはじめてからのことです。遅まきながら、というところです。

 『五つの童画』という大変な合唱組曲があります。合唱もおそろしく難しく、ピアノ伴奏がそれに輪を掛けて難しいという作品で、よくもまあこんなものを1960年代という時期に書き、そして初演したものだと思ってしまいます。高田三郎『水のいのち』だとか佐藤眞『旅』だとかと同時期と考えると、「え〜っ」と言いたくなります。
 学生有志でこれを演奏することになったのでした。指揮は吉岡弘行さんで、ピアノは土田英介さんだったのですから、これまたいま考えると豪華版です。合唱にも野々下由香里さんとか黒木純くんとか、その後活躍している声楽家が何人も加わっていました。歴史的演奏とまで言うと言い過ぎでしょうが、これに参加できたのは私の青春時代の快事のひとつだと思っています。
 こういう豪華メンバーをもってしても、『五つの童画』の演奏は相当に困難で、何度もリハーサルを繰り返して本番を迎えました。確かこの曲はNHK出版から楽譜が出ていたはずですが、この頃すでに絶版になっていました。たぶん難しすぎて演奏する団体がほとんど無かったのだろうと思われます。
 しかし合唱の近年の技術向上というのはめざましいものがあって、その後あちこちのアマチュア合唱団でもこれが歌われるようになり、先年ついに、パナムジカから覆刻版が刊行されました。関係者にとっては「待望の」と形容がついて然るべきだったことでしょう。
 『五つの童画』の演奏に参加したことは、私の創作にも影響を及ぼしたと思います。私の最初の合唱組曲である『夏の旅』は、明らかに『五つの童画』から影響を受けた書法になっています。

 大学で入っていた学内合唱団に、卒業後も私はしばらく参加していましたが、三善作品を扱ったことは何度かありました。しかし、徐々に私はその書法に疑問を覚えるようになりました。
 音が多すぎるのではないか、というのがひとつの疑問です。
 のちになって、武満徹なども同じような書きかたをしていると知ったのですが、混声四部合唱であっても、各パートがいとも気安く2つ、3つと分割(divisi)され、全体では七声八声から時には十声以上になっていることが少なくありません。欲しいと思った響きを、感覚のままに重ねてゆくとそういうことになってしまうのは、私にもわかります。
 でも、その響きの効果を得るために、本当にこれだけたくさんの音が必要なのでしょうか。もっと吟味して、四部合唱であれば四声からあまり離れないパート数で進めてゆくべきなのではないでしょうか。
 divisiが容易な大人数の合唱団は、その当時もすでにだいぶ少なくなっていました。せいぜい20人、あるいは10人そこそこの小合唱団が増えてきて、divisiしてしまうと1パートがひとりしか居ない、などということがちょくちょく起こるようになっていました。この現状を、合唱曲を作る側としても少し考えたほうが良い、と私は思いました。
 その考えに基づいて作ったのが『あいたくて』という無伴奏合唱組曲です。第1曲と終曲の末尾で、本当にわずかにdivisiがあるだけで、ほとんどの部分を純然たる四声体で書いたのでした。私としては三善晃式の合唱書法へのアンチテーゼという気持ちでした。パートを分けなくてもこれだけの響きが作れるのだ、ということを示したかったのです。その後に書いた『今日からはじまる』も同様のコンセプトによる作品です。
 『あいたくて』の初演の時、若さの気負いもあって、プログラムノートの原稿にそういったことを正直に書いたところ、ある人から忠告を受けました。

 ──こんなことを書いていると、君という作曲家がどんな人かとなった時に、「三善さんを批判している人」みたいに考えられてしまうんじゃないか。これから合唱界でやってゆく上で、それはやっぱり不利になるだろう。

 衷心からの忠告でしたから、私は仰せに従って文章を書き直しました。よく考えてみれば、別に文中で三善晃の個人名を出す必要も無かったようです。
 それにしても、「三善晃を批判している」ということが不利に働くとは、合唱界における三善先生の存在感を思い知らされた気分でした。実際、合唱人の中には三善晃を神様とも思っているような人が幾人も居るのでした。合唱だけでやってきたわけでない私にとっては信じがたい光景でしたが、事実そうなのですから仕方がありません。

 私が自分の仕事の上で三善晃という存在を意識したのはその頃までだったと思います。それからは、自分がやるべきことをやれば良い、という姿勢になって、誰かを意識するということもほとんど無くなりました。
 しかし、それからしばらくして、『赤毛のアン』を含む世界名作劇場の主題歌を編曲する仕事が舞い込んだのでした。
 この本は絶版になってしまいましたが、『赤毛のアン』のオープニング「きこえるかしら」、エンディング「さめない夢」の2曲の冒頭には、まぎれもなく

 作詞 岸田衿子
 作曲 三善晃

 というクレジットの下に「編曲」として私の名前が記載されていました。三善の御大と私の名前が同一ページに並ぶ時が来るとは、と感慨を覚えたものです。

 私と三善先生とのつながりは、その程度のものでしたので、個人的な思い入れはあまりありません。
 しかしながら、やはり「巨星墜つ」という気分は感じます。日本の音楽界のひとつの時代が終わったという感覚でしょうか。
 たぶんこれから来年あたりにかけて、いろんな合唱団が追悼演奏などをおこなうのではないかと思います。
 しかし、三善晃という作曲家は、「合唱界の神様」であることに満足していたのだろうか、という疑問は残ります。自分自身ではやはり器楽曲が本領と考えていたのではないかと、どこか思わないでもありません。
 最後に、軽いエピソードをふたつほど。
 三善先生は桐朋音楽学園の学長をなさっていましたが、入学試験の時に学内を歩いていると、受験生から用務員のおじさんと間違われたそうです。外見は貫禄というもののまるで無い人でした。
 桐朋の学長をしながら、東京藝術大学にも非常勤で来ていましたが、週ひとコマのことでもあり、ほとんど出勤せず、受け持ちの学生には自宅へ来させて指導をしていました。昔の大学では、そういうことがわりと平気でできたのです。ある時、学生の出席状況を調査する書類が送られてきました。三善先生は書類をよく読まず、学生のことではなくて自分の出勤状況をとがめられたと早とちりして、大あわてで芸大の事務室に駆け込んだのでした。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

(2013.10.6.)


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