「幻想曲」を考える

 「幻想曲」というのはファンタジーファンタジアの訳語として楽曲につけられるタイトルなのですが、どういうスタイルの曲であるかとなると、いろんな本を読んでもはっきりしないようです。
 普通、幻想曲というタイトルに抱くイメージとしては、それこそ幻想の赴くままに、とりとめもなく、自由に作られた曲というものでしょう。音楽の本には「決まった形式が無い」と説明されることが多いと思います。
 本当にそうだろうか、と私は以前から疑問でした。ファンタジー、ファンタジアと銘打たれた曲に接してみると、ある傾向のようなものが感じられるような気がしてならないのです。
 ただし、それは「ソナタ」のように、時代が変わってもある一定の形を保っているというものでもありません。ハイドンのソナタとバルトークのソナタとでは全然違うように見えるかもしれませんが、ソナタ形式に基づく楽章を含む多楽章形式という点では、同じカテゴリーであることがすぐにわかります。もちろん「ソナタ」と称していても、ソナタ形式の楽章が含まれなかったり、単楽章であったりする曲もたくさんありますが、その場合でも、作曲者がなぜその楽曲にソナタと名付けたのかという類推は、それほど困難ではありません。
 「幻想曲」の場合は、時代によってスタイルが大きく異なるようです。しかしそれでも、なぜ作曲者がその楽曲を幻想曲と名付けたかということを考えると、それなりの理由がありそうに思えます。
 あんまり系統立てて分類してみたわけでもないので、それこそ幻想的にあちこちふらつきながら論ずることになりそうですが、ちょっと考えてみたいと思います。

 私の作品に、女声合唱のための『インヴェンション』というのがありますが、その第4曲に「ファンタジア」というタイトルを与えています。この組曲は、他にも「インノ(聖歌)」「フーガ」「シチリアーノ」「パッサカリア」と、あえてバロックスタイルのタイトルをつけており、「ファンタジア」も現在の幻想曲のイメージではなくて、バロック期のファンタジアを意識して命名しました。テキストとして使った立原道造の詩に、特にタイトルがついていなかったので、そういうことをやってみたわけです。
 この場合のファンタジアというのは、「ポイント」という一種の句読点で区切られ、その都度新しいモティーフが導入されて自由に展開するという多声楽曲の様式です。バロック期の、特に初期に好まれました。この時点では、そういうある程度決まった形というのが存在したのは確かです。
 これがバロック末期のバッハになると、少し違ったスタイルになってくるようでもありますが、バッハがどういう曲に対してファンタジアという名前を与えているのかは、それほどはっきりしません。
 バッハには「幻想曲とフーガ」という形の作品がいくつかあります。有名なのはクラヴィーアのための「半音階的幻想曲とフーガ」でしょうか。他にもいろいろありますが、不思議なことに偽作の疑いが強かったり、幻想曲とフーガがそもそも対ではなく別々に書かれたらしいものだったりと、わりと一筋縄で行かない曲が多いようです。弟子の誰かが同じ調の曲を組み合わせて発表したりすることもよくあったようで、その場合はたしてバッハ自身が「幻想曲」と名付けていたのかどうかもわかりません。
 バッハには「前奏曲とフーガ」という形のものが、『平均律曲集』をはじめとしてたくさんありますし、「トッカータとフーガ」という形のものはオルガン用に何曲もあります。それらの「前奏曲」や「トッカータ」と「幻想曲」がどう違うのかとなると、どうも明快ではありません。ただ、なんとなくの印象としては、前奏曲やトッカータよりも大規模であり、拍節がはっきりしていないとか、奏者の即興に任せる部分が多いとか、そんな傾向がありそうではあります。
 一方、『パルティータ』の第3曲にもファンタジアが含まれています。『パルティータ』というのは6つの組曲からなる曲集ですが、同様の形を持つ『イギリス組曲』と違って、前奏曲にあたる曲種が全部異なる名前になっているのが特徴です。1番が「プレルーディウム(前奏曲)、2番が「シンフォニア(合奏曲)、3番がこの「ファンタジア」、4番が「ウヴェルチュール(序曲)、5番が「プレアンブルム(前奏曲)、6番が「トッカータ」というのが冒頭に置かれ、それからアルマンド・クーラント・サラバンド……という古典舞曲が連なる配列になっています。前奏曲と訳されるのがふたつありますが、プレルーディウムはつまりプレリュードのことで、プレアンブルムは手紙などの「前文」を意味する言葉です。
 ここでのファンタジアは、「半音階的幻想曲」などとはかなり趣きが違っていて、わりと軽やかな、2声のインヴェンションを思わせるような楽曲となっています。上に書いた、古い時代のファンタジアを意識したのかもしれません。
 ヘンデルにもファンタジアがありますが、これも『パルティータ』のファンタジアタイプです。常動曲的に軽快に走り回る感じで、こんにちの「幻想」的なイメージとは違っているようです。

 モーツァルトベートーヴェンの幻想曲は、形式的にかなり似通っていて、これがおそらく、古典派時代の幻想曲の定型であろうかと思われます。
 モーツァルトには有名なニ短調の幻想曲K.397があり、またハ短調ピアノソナタと組み合わせて演奏されることが多いK.475もよく知られています。いずれも、わりに荘重な始まりかたをして、しばらく即興的に展開したのち、雰囲気の違うゆったりとした部分が置かれ、その後も少し自由に動いて、後半は急速なテンポに変じます。ニ短調のほうは急速なままで終わってしまいますが、ハ短調のほうは最後にもういちど冒頭のテーマが現れて終わります。
 ベートーヴェンの作品77であるロ短調幻想曲も、これとよく似た構成を持っています。この曲はお世辞にも名作とは言えず、後半などは同じモティーフがひたすら繰り返されるばかりでだんだん飽きてきます。こう言っては語弊がありそうですが、ベートーヴェンにもこんな駄作があるのかと、同業者としては少々安心してしまうようなシロモノです。ちなみに、作品80には「合唱幻想曲」なる曲もあります。これは「合唱つきピアノ協奏曲」とでも言うべき編成で、「第九」の先駆と言えないこともないのですが、これも後半はひたすら退屈な繰り返しになってしまう駄作なのでした。どうも作品番号70〜80台あたりは、ベートーヴェンがいろいろ迷走しているさまが見て取れます。ヴェーバーシューベルトなど、のちにロマン派と称される若手が台頭してきて、ベートーヴェンも自分の立ち位置に迷いまくっていたらしいのです。ハイドンサリエリクレメンティも、大体このくらいの時期(1810年前後)に筆を折ってしまいました。何度か書きましたが、音楽史上の古典派とロマン派の違いというのは、後世のわれわれが想像するよりも大きく深刻なものがあったと思われます。
 ベートーヴェンに関して言えば、もっと前に、作品27のふたつのピアノソナタに「幻想曲風ソナタ」という名称を与えています。現在では27-1が「幻想ソナタ」、27-2が「月光ソナタ」というあだ名で呼ばれていますが、本来はこの2曲をまとめて「ソナタ・アラ・ファンタジア」というタイトルで出版されたのでした。この2曲は、ベートーヴェンがそれまでに自ら構築した「ソナタ」という様式をあえてぶちこわそうとしたらしい意欲作ですが、大ざっぱに四捨五入してしまうと、いずれも「ゆったりとした第1楽章」「軽快な第2楽章」「急速な第3楽章」という速度構成になっています。つまり、冒頭から徐々にテンポを上げるという形であり、どうもこの時代のファンタジアというのは、そうした定型があったように思われるのです。

 シューベルトには「さすらい人幻想曲」というのがあります。作曲者自身は「幻想曲」としか名付けていないのですが、途中に自作歌曲「さすらい人」のテーマが出てくるのでこう呼ばれています。ピアノ五重奏曲「鱒」と同様ですね。
 上記のベートーヴェンの幻想曲から、さほど時は経っていないはずなのですが、これはモーツァルトやベートーヴェンとはまったく違った構成を持っています。悪く言えば「ソナタの出来損ない」という趣きです。
 ソナタの4楽章を思わせる4つの部分から成り、それぞれは切れ目無しに続けて演奏されます。第1部はきわめて明朗活発で、いかにもソナタの第1楽章というイメージではあるのですが、ソナタ形式にはなりきれず、やや散漫に次につながってゆきます。第2部が「さすらい人」変奏曲と言うべき部分ですが、これも「変奏風な展開」にとどまって型どおりの変奏曲にはなっていません。
 第3部のスケルツォ風な部分が、楽章としてのまとまりはいちばん感じられます。そして第4部はシューベルトとしては珍しくフーガみたいに始まりますが、彼の資質としてフーガで押し通せるほどのポリフォニーセンスは無く、ほどなく分散和音に逃げてそのまま華麗に終わります。全体として、ソナタの各楽章が不充分な形のまま継ぎ合わされているという印象を受ける楽曲です。
 (この曲が好きな人も居ると思いますので、誤解されないよう言っておきますが、「不充分」というのは音楽的価値が不充分ということではありません。あくまで形式の上から見た話です)
 この「ソナタの出来損ない」という感じは、シューマンの幻想曲にも言えます。リストに献呈されたこの作品は、当初「オイゼビウスとフロレスタンの大きなソナタ」と題される予定だったとも言われていますから、それも当然かもしれません。なおオイゼビウスとフロレスタンというのはシューマンが音楽評論を書く時のペンネームで、前者は物静かでいつも冷静、後者は激しやすく熱狂的なんだそうです。シューマンらしい稚気あふれる設定です。
 こちらはシューベルトのとは違って楽章がはっきり分かれています。3楽章から成っていますが、第1楽章はやはりソナタ形式とまでは言い切れない奔放な構成です。第2楽章は行進曲風の活溌な曲想、そして第3楽章は一転して静謐なゆったりした音楽となります。当時の「ソナタ」の感覚では、このあと再び激しさのある第4楽章が置かれるのが普通だったはずなのですが、ここまで作曲して時間切れになったのか、それともここまでで充分おなかいっぱいになりそうなので第4楽章を断念したのか、いずれにしろソナタとしての体裁が整わなかったので幻想曲ということにしたように思われます。
 一方、ショパンの幻想曲はまた少し違って、多楽章形式っぽい印象はありません。単一楽章でよくまとまった作品です。神野明先生はかつてこの曲について、
 「調性音楽の極致だね」
 とおっしゃったことがありました。それがどういう意味なのかはさておいて、葬送行進曲のような序奏(「雪の降るまちを」にちょっと似ている)、流麗なメインテーマ、軍隊行進曲調のテーマ、美しいコラールのテーマが渾然一体となって展開する様子は、ショパンの最高傑作に推す人が少なくないのもうなづけるものがあります。
 リストには「ソナタ風幻想曲『ダンテを読んで』」というのがあります。『巡礼の年報・イタリア編』の終曲に置かれ、ロ短調ピアノソナタと双璧とも呼ばれる大曲です。「ソナタ風」と名付けられるだけあって、この曲はかなり自由にアレンジされたソナタ形式で書かれています。逆にリストの場合は、ピアノソナタのほうが「これはむしろ幻想曲と呼ぶべきではないのか」と言われたりしたようで、この辺からだんだん境目が曖昧になってきているかもしれません。
 スクリャビンの幻想曲になると、もはやほとんど単楽章ソナタと言って良いシロモノになっています。スクリャビンはソナタも第5番以降は全部単楽章なので、いよいよ区別がなくなってきた感じです。ロ短調幻想曲は、まだソナタを多楽章で書いていた時期の作品なので「ソナタ」の名を遠慮したに過ぎないかもしれません。

 こんな調子で、「幻想曲」はいずれの時代においてもかなり自由な扱われかたはしているものの、やはりまったく無形式というわけではないことが窺われます。
 実は私も「ファンタジー」と題したピアノ曲を書きかけています。というか4曲組にするつもりなのを2曲書いたところでしばらく放ってあるので、まだ作品リストには載せていません。これは「幻想曲」と訳すのは不適当な「ファンタジー」で、小説やロールプレイングゲームで言うところのファンタジー、つまり「剣と魔法の世界の物語」を意味しています。すでに書いた2曲のタイトルが「シルフ」「ウンディーネ」というところで、ははあ、と思う人も多いでしょう。当然、あと2曲は「ノーム」「サラマンダー」の予定です。要するに4大元素を司る精霊のイメージを曲にしているわけです。シルフは風、ウンディーネは水、ノームは土、サラマンダーは火を司ります。
 かなり長いこと放ってあったこの作品の作曲を、また再開しようかと久しぶりにさっき思ったもので、関連して「ファンタジー、ファンタジア=幻想曲」についてちょっとこだわってみようと考えた次第です。思ったとおり散漫な文章になってしまいましたがご容赦を。

(2013.2.28.)


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