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  日本人は生真面目で、ユーモアのセンスに乏しい、とよく言われます。  外国人から言われることもありますし、自分らで自嘲的に言うことも多いようです。  確かに、いろんな式典でのスピーチのたぐいを聴いていると、日本人というのはどうしてこう話がつまらないのだろうと情けなくなることも珍しくありません。海外の同様の席でスピーチを聴いていると、私などには何を言っているのかよくわからないにせよ、実にしょっちゅう聴衆から笑いが起こります。人前でスピーチをするほどの人物なら、適度なユーモアやウイットがあって当然という空気があります。  パーティなどでジョークを披露するのも日本人は苦手なようです。ロシア人などは寄るとさわるとジョーク(アネクドート)を飛ばし合うらしく、ロシア語に相当堪能な人でもとてもついてゆけないほどであるそうです。ロシアンジョークはそれだけまとめた本も何冊も出ていますし、世界的に有名なのもたくさんあります。時の権力者をおちょくったようなものが秀逸です。 
       
       ──「フルシチョフの大バカ野郎!」と大声で叫んでいた男が逮捕された。 
       男は、15年のシベリア送りの刑に処せられた。 
       そのうち5年は、国家元首侮辱罪である。 
       あと10年は、国家機密漏洩罪であった
  
       ──「同志よ、いまわがソ連を苦しめている3つのBがある。ひとつはバレル、石油だ。もうひとつはブッシェル、小麦だ」 
       「なるほど、もうひとつはなんだ?」 
       「それは、いまここでは言えない。こっちに来てくれ」 
       (ふたり、物陰へ)「で、もうひとつのBとは?」 
       「ブレジネフだ」
  
       こういうジョークを高校生の頃に知って笑い転げたものですが、まだまだ新作が作られ続けているようです。オリジナルのジョークをたくさん披露した人がもてるらしいので、みんな必死になって考えているとも言われます。
  
       アメリカンジョークもよく知られていますが、少々ガサツな印象があります。テレビのコメディドラマで、ギャグに対してどこからともなく笑い声が聞こえてくるというUSA独特の演出がありますが、ああいう笑い声でも流さないと、ちょっと「寒く」感じるものも少なくないようです。 
       訴訟社会を反映してか、弁護士ネタには面白いものが多い気がします。 
       
       ──神様「もう堪忍袋の緒が切れた。貴様を訴えてやるぞ」 
       悪魔「訴えるなら訴えてみやがれ。弁護士という弁護士はみんなおれの味方だ」
  
       こういう当意即妙のパーティ・ジョークのたぐいは、確かに日本人は得意ではなさそうです。一体に語学力が弱いせいもありますが、そういう場に出ても羞しそうに押し黙っているというのが日本人の一般的イメージであり、われわれ自身もそういう自己像を持っています。 
       しかし、日本人にユーモアセンスが無いというのは本当なのでしょうか? 
       狂言、狂歌、川柳、洒落本、落語、漫談、漫才……日本の古典芸能にも古典文芸にも、笑いを目的としたものがいくらでもあります。笑い自体を目的としなくとも、思わず笑ってしまうような表現は、枕草子にも徒然草にもたくさん出てきます。 
       徒然草の盛親(じょうしん)僧都の段などは、私は古文の教科書を読みながら噴き出してしまいました。いくつかエピソードが書かれていますが、例えばこの盛親僧都がある僧を見て「『しろうるり』みたいだな」と言います。かたわらの人が、 
       「しろうるりってなんですか?」 
       と訊ねると、僧都は澄まして 
       「わしもそんなものは知らん。もしあるとすれば、この坊さんの顔に似とるんだろうな」 
       なんともとぼけていて、ニヤニヤが止まらなくなります。 
       そしてもちろん「東海道中膝栗毛」の捧腹絶倒ぶり。これはほとんど会話文で進んでゆく小説なので、そんなに註釈が無くとも、いまでもけっこうすらすらと読めます。端書きのところから私は笑い転げてしまいました。 
       
       ──或人問(あるひと問う)、彌次郎兵衛喜多八は原(もと)何者ぞや。答曰(こたえていわく)、何でもなし。彌次唯(ただ)の親仁(おやじ)なり。喜多八これも駿州江尻の産。尻喰観音(しりくらいかんのん)の地尻(じしり)にて生れたる因縁によりてか、旅役者花水多羅四郎(はなみづたらしろう)が弟子として、串童(かげま)となる。されど尻癖わるく、其所(そこ)に尻すはらず、尻の仕廻(しまい)は尻に帆をかけて、彌次に随ひ(したがい)出奔し、倶(とも)に痴気(たわけ)を尽す而已(のみ)。
  
       無粋ながらちょっとだけ註釈を施しますと、かげまというのは男娼のことで、弥次さん喜多さんはホモだちだったのですね。ただし今で言うゲイではなく、本文中ではふたりとも女には目のない好色漢として描かれています。それにしても後半の「尻」づくしの絶好調なこと。なお駿州江尻はいまの静岡市清水区のあたり、地尻というのは土地の端っこ近くのことを指します。 
       明治になっても、夏目漱石という巨人が居ます。本人はしかめ面ばかりしている神経衰弱の胃痛持ちだったかもしれませんが、その作品に漂う卓越したユーモアのセンスを否定することは誰にもできないでしょう。そして、漱石がそのために低く見られたなどということは一度もありません。「笑い」は日本人にとって、決してばかげたものでも、卑しいものでもなかったはずです。 
       日本の近代文学と言えば、なんだか難しい顔をして深刻な話ばかりしていたような印象がありますが、ユーモア文学の系譜はちゃんと途切れずに続いています。漱石の弟子であった内田百は私の好きな作家ですが、いくぶん神経症的で胸苦しいような作品と共に、バカ笑いを誘うようなユーモラスな随筆を次々と書きました。ユーモラスなほうが低評価ということもありません。笑いの文芸は、日本において途切れたこともありませんし、価値の低いものと見なされたことも(意外なことに)滅多に無いのです。 
       
       文学でなくとも構いません。芸能界において「お笑い」はつねに求められ続けてきましたし、マンガにおいてもギャグマンガはひとつのジャンルとして確立しています。さらに言えば、そういう「プロの技」でなくとも、2ちゃんねるとか各種ブログ・掲示板などのコメントを見ても、笑いのセンスが光っているものはいくらも見受けられるのです。AA(アスキーアート)職人と言われる無名の絵師たちの作品には、ユーモアばかりでなくウイットまで感じられます。 
       こうして見てくると、日本人にユーモアセンスが無いなどとは到底言えたものではありません。 
       それなのに、どうして「生真面目で、ユーモアのセンスが無い」などという性格付けが、自他共に認める日本人の姿となってしまったのでしょうか。 
       ひとつ言えるのは、いままで挙げてきた日本人のユーモアやウイットは、すべて、 
       
       ──じっくり推敲され練り上げられてきたもの
  
       であるという共通点があるということです。漱石も百閧焉A身を削るような想いで推敲に推敲を重ねて、あのユーモアあふれる文章を産み出しました。十返舎一九だって同様でしょう。 
       徒然草にしても、例に挙げたしろうるりの件など、非常に「ロジカルな笑い」なのです。たぶん、パーティなどの場で話しても、さほど面白くはないのではないでしょうか。文章を読んだ上で、じわじわと笑えてくる話なのでした。 
       落語も漫才も、話芸として長年鍛錬を重ね、きっちりと型ができているからこそ笑えるのです。「寝床」にしろ「あたま山」にしろ、ど素人が話してみてもまるっきり笑えそうにありません。 
       つまり、日本のユーモアというのは、厳しく練り上げられ、推敲を重ねられたところに生まれるものだと思われるわけです。パーティやスピーチで垂れ流すだけのジョークが苦手なのは、そういうものが日本の笑いのスタイルとは異なっているからでしょう。 
       その意味では、日本のユーモアは非常に質が高いものだと思います。しかし、当意即妙という要素に欠けることは否めません。遺憾ながら、国際場裡においては、当意即妙のウイットが求められることのほうが圧倒的に多いので、どうもわれわれは損をしているようです。 
       
       まあ、最近はスピーチにしても、ほどよく笑いをとるものが多くなってきているようなので、日本人もずいぶん馴れたと言えそうです。私なども、人前でしゃべる際には、なるべく笑いをとれるように考えます。 
       しかし、外国人から 
       「ひとつジョークでも聞かせてくれないか」 
       というような要望を寄せられたとしたら、やはり面食らいそうです。ジョークというのは話の流れの中で自然に出てくるもので、あらたまった形で口にするものではないのではないか、という気分が残っています。あらたまって何か言ったりして、すべりまくったらどうしよう、とも思います。実は、アメリカ人にしてもロシア人にしても、自分のジョークがすべっても全然気にしないで話を続けるようで、その点は日本人はまだ振り切れていないのかもしれません。 
       小学生向けの雑誌に載っているような「笑い話」でまったく構わないので、いくつか憶えて、その国の言葉で言えるようにしておくと良いように思います。言葉遊びっぽいのだと訳しづらいので、ロジカルに笑えるもののほうが良いでしょう。例えば、 
       
       ──「ぼく、船乗りになりたいんだけど、泳げないんだ。どうしたらいいかな」 
       「大丈夫。うちの父さんは飛行機のパイロットだけど、空を飛べないからね」
  
       たぶん、この程度のジョークで相手は笑ってくれるような気がします。 
       
       エスニックジョークというのがあって、ある状況に対して「アメリカ人はどうこう、フランス人はどうこう、ドイツ人はどうこう」等々と並べ立てるのを定型としています。それぞれの国の国民性を笑うのが主眼なので、もちろん偏見に満ちており、下手なネタを使うと喧嘩になりかねませんが、先進国同士であればたいてい笑いあえます。 
       有名なのは、沈没船のジョークでしょう。 
       
       ──大型客船が沈みそうになった。乗客の一部には自分で海に飛び込んで貰わなければならない。そこで、船長はそれぞれの乗客にこう言った。 
       アメリカ人には「いま飛び込めば、ヒーローになれますよ」 
       英国人には「紳士としては、飛び込むのが義務です」 
       イタリア人には「飛び込めば、女性にモテますよ」 
       ドイツ人には「こういう場合、飛び込むのが規則になっています」 
       フランス人には「いいですか、絶対に飛び込まないでくださいよ」 
       日本人には「もう皆さん、飛び込まれましたよ」
  
       アメリカ人のヒーロー・コンプレックス、英国人のジェントルマン・コンプレックス、イタリア人の女好き、ドイツ人の規則好き、フランス人のアマノジャクさ、日本人の同調癖といったステレオタイプがうまく表されていると思います。 
       ネタにされた国民は「なにおう」と思いはしますが、そのあとで「まあ、そうだよな」と苦笑するのが常で、こういうのをいくつか憶えていれば、いろんな国で披露できるでしょう。 
       自分なりにアレンジすることも可能です。この種のエスニックジョークに、日本人が登場していることはけっこうあるのですが、案外と日本人自身が付け加えたというケースも少なくないようです。 
       上の沈没船のジョークにせよ、最近は 
       
       ──韓国人には「日本のお客さんは、もう飛び込まれましたよ」
  
       という一文が付け加えられたりもしています。日本人にだけは絶対に負けたくないといきり立つ韓国人の性癖を、これまたうまく言い表しています。ただし私の見るところ、韓国人はまだ自国の国民性をジョークで言われることにまだ馴れておらず、怒り出す可能性があるような気がするので、韓国人ネタを追加するときは場所を選ぶ必要があるでしょう。 
       
       ──男の幸せとは、「アメリカ人並みの給料を貰い」「英国式の家に住み」「日本人の妻をめとり」「中華料理を食べる」ことである。 
       男の不幸せとは、「中国人並みの給料を貰い」「日本式の家に住み」「アメリカ人の妻をめとり」「英国料理を食べる」ことである。
  
       これなども、聞いたら怒る人が居そうではあるものの、おおむね「そりゃそうだ」と納得するところではないでしょうか。日本女性がどうやら世界的にモテモテであるところは、冴えない日本男児のひとりとしてはご同慶の至りです。 
       この種のエスニックジョークは、文章がシンプルなのでいろんな言葉で言いやすいし、自国を笑うネタを含めておけばそうイヤミになりません。あらかじめ作成し推敲しておくということがしやすい点、日本人向きのジョークとも言えそうです。 
       
       アドリブでギャグを言い合うたぐいのお笑い番組が、往々にしてあんまり面白くないのも、たぶん日本人の笑いのスタイルに合っていないからではないでしょうか。 
       日本の笑いのスタイルに合うコントは、ドリフターズのようなタイプだと私は思っています。つまり、しっかりと台本を作り、タイミングから何から隅々まで練り上げ、仕掛けをきっちり仕込んだ上で演じるコントです。 
       ドリフのギャグというのは時に強烈すぎて、私自身の好みには適わないこともあるのですが、素人に毛が生えた程度の芸人がだらだらとくっちゃべっているばかりの低調なお笑い番組を見ていると、やはりドリフは凄かったんだなとあらためて思います。 
      (2014.5.24.)  |