忘れ得ぬことども

学校教育私論

I

 銀行や役所に勤めている知人友人も多いのですが、最近そういった職場もかなり変化してきているらしいことが伺えます。
 護送船団方式とやらで、銀行はひとつも潰さないなどと言っているうちはどうしようもなかったのが、いざ拓銀やら長銀やらがワヤになり始めると、電気に撃たれたかのように、リストラや再編成が進むようになりました。
 日本という国は、動き出すのは遅いのですが、ひとたびコンセンサスができてしまうと、たちまち国を挙げてすごい勢いで動き出すところがあります。明治維新の時も、敗戦後も、そういう風に、まわりがあれよあれよという間にひたすら突っ走って、たちまち大変革を成し遂げてしまいました。
 しばらく前に読んだ日本人と中国人との比較論で、日本人は誰かが旗を振れば一気にそれに向かって走り出すが、中国人はまずひとりひとりに納得させないと動かない、というようなのがありました。この論者の見方はいささか皮相であったように思えます。日本人だって、ひとりひとりが納得して、そうあらねばならないというムードを高めないことには、誰かの旗振りで容易に動くものではありません。むしろ、ムードが高まらないうちから旗を振る人がいても、よってたかって足をひっぱるのが関の山です。構成員みんなが納得する、とまでは行かなくても、まあやむを得まいと思って動くからこそ、一旦動き出すと止めようがないほどに走り始めるのです。
 多分ここ数年中に、社会意識は大きく変わるのではないでしょうか。

 下手な論説文みたいな前置きはここまでにして、まだしばらく変化しそうにないのが学校教育です。
 学校教育についても、この際抜本的な改革をやらないと、どうしようもないところまで来ているというのが私の感触なのですが、どう変えようとしても、必ずあちこちから反撥が出て、らちがあきません。
 私はいくつか提言を持っているのですが、学校の先生などに話しても、ほとんど相手にされないのが現状です。

 例えば、私は六三三四制はやめてしまえと思っています。戦前の六五三三制の方がはるかによいと考えます。何も学制まで無批判にアメリカ方式を導入しなくてもよかったので、六五三三に何か不都合があったのでしょうか。
 実は、ちょっとした不都合ならありました。戦前、日本は小学校のみ義務教育になっていましたが、中学校まで義務にするというプランが提唱されてはいたのです。ところが、そのための財源がなく、見送られていました。
 中学の5年間を義務にするのは大変ですが、3年ならなんとかなるだろうというのでアメリカ式にしたのではないかと思うのです。
 しかし、もはや日本は貧乏国ではなく、義務教育を11年くらい行う余裕がないとは考えられません。早急に六五三三に戻すべきです。

 というのは、15歳で受験勉強に追われるというのが、どう考えても人格形成上マイナスにしかならないと思うからです。このくらいの年代では、もっと大事なことを学ばなければならないし、また学ぶことのできる時期です。いちばん感受性の豊かな時期を、受験勉強で潰してしまうのは犯罪に等しいのではないでしょうか。
 またその、人格的に不安定な年齢が、中学校では最高学年になってしまっているのです。この時期こそ、親より先生より、年代の近い先輩などの助言が非常に有効だと思われるのに、中学3年生には上級生がいません。
 中学校を5年制にすれば、高校受験は17歳でのことになり、17歳になれば物事もかなりよくわかってくるものです。誰も彼も高校に進むということもなくなり、その分高校ではより質の高い教育がおこなえるのではないかと思います。まあ過渡期には、「中卒」というイメージが悪くて混乱するかもしれませんが、それも数年のことでしょう。

 高校は現在の大学教養課程までということになります。教養課程を切り離した大学は、より研究中心の場となるでしょう。
 現在でも、学力的あるいは経済的に余裕のある家庭の子女は、15歳での受験を避けるべく、中高一貫の学校に入ることが多くなっています。私も国立の中高一貫校でしたが、とてものびのびとした雰囲気でした。世間からは受験校と見られている学校なのですが、受験校という言葉から想像されるようなガツガツした空気は全くありませんでした。こういうのは、六五三三制に変えた時のモデルケースになるはずです。

 学校で学力のみを評価することの是非もよく論じられています。もっと総合的な人格評価をすべきだという意見の人が多いようです。
 しかし、私はそれはとんでもない見当違いだと思っています。
 学校は本来学問の場であって、学力のみで評価するのが当然なのです。問題は、学校での評価が即社会的な評価になってしまう世の中の空気の方にあるのであって、学校に多くの役割を持たせ過ぎています。
 仮に学校で総合的人格評価をおこなうとしましょう。その評価が低かった生徒はどうなると思いますか?
 学力が低いというだけでも肩身が狭いのに、総合的人格が低いとなっては、もはやどこにも救いがないではありませんか。

 それに、他人の総合的な人格評価などということのできる人間が、はたして居るものでしょうか。教師といえども、他人である生徒の人格を評価するというような、僭越な権利を持っているわけがありません。
 要は、いい学校を出た学生を採用してみたものの人格的に問題のあるケースが多すぎることに音を上げた企業側が、人格の評価も学校でして貰いたいと言っているだけのことであって、責任転嫁というか、自らの人の見る眼のなさを暴露しているだけのことなのです。
 学校の役割は、むしろ縮小すべきだと私は考えます。子供たちが朝から晩まで、クラブ活動だなんだで学校に閉じこめられているのがそもそも異常なのです。クラブ活動も結構ですが、それは学校以外の場に置くべきです。そして、その「学校以外の場」の評価を、学校での学力評価と並行して見るという習慣が社会の中に生まれなければなりません。

 カリキュラムについても言いたいことがあります。
 専門家に諮問するのはやめて貰いたいと思うのです。
 中学校まで習った算数や数学のうち、どのくらい役に立っているかという話がよく出ます。世の中に出れば加減乗除程度しか必要ないという意見が多いですね。因数分解などなんの役にも立っていないというのです。
 役に立つことだけ教えればいいかどうかはまた別の問題ですが、算数や数学のカリキュラムを作る時に、数学者に相談するからこういうことになるという点はあるでしょう。
 数学者は、数学が好きでその道を選んだ人です。数学の世界に面白いことがたくさんあることを知っていますから、それをなんとか伝えたいと思うのは当然です。あれもこれもとなって、きりがありません。しかし、誰もが数学の面白さを彼と同じように感じ取れるわけではないのです。
 私の専門で言えば、音楽のカリキュラムにも問題があります。

 しばらく前、学習指導要領で、邦楽を扱うようにとの指示が出されました。
 全国の音楽の先生はあわてました。ほとんどの人は西洋音楽の訓練しか受けてきていないのですから当然でしょう。付け焼き刃で講習会などに通っても、邦楽の良さをそうそう一朝一夕に学び取るということはできるわけがありません。先生自身がよくわからないものを、生徒に要領よく伝えられるはずがないのです。
 学校の音楽が、これまであまりにも西洋音楽一辺倒であった点は確かに問題がありますが、いきなり邦楽を教えろと言われても無理な話です。
 思うに、邦楽も教えるべきではないかということになった時に、教育審議会で、邦楽の専門家を呼んで意見を聞いたのではないかと想像されます。
 邦楽家としては、学校で邦楽が教えられるようになれば嬉しいに決まっています。訊かれれば、

 ──それは日本人なのだから、日本の音楽も扱うべきでしょう。

 と答えるしかないではありませんか。

 カリキュラムを作る時に、その分野の専門家を呼んではいけないのです。専門家は自分の専門を大事に思うに決まっているのであって、これは外せないと言うのが当然です。意見を訊くくらいならよいとしても、決定にあずからせるべきではありません。
 これは学校のカリキュラムに限らず、他の行政においても同様だと思います。

 ──君子は器ならず

 という中国の格言があります。世の中の指導的役割にいる人(君子)は、何かの専門家(器)であってはいけないという意味の言葉です。軍事専門家たちが政権についてしまったばかりにとんでもないことになってしまった第二次大戦の教訓を思い起こすべきでしょう。

 他にもいろいろ考えるところはあるのですが、とにかく学校教育は今のままではいけないと思っています。今の学校教育は、基本的には規格大量生産工業社会の構成員を育てるためのものであって、その大前提自体が大きく揺らいでいる現在、学校が荒廃しつつあるのは当然です。教師の質が落ちたせいではありません。
 新しい社会には、新しい教育が不可欠なのです。

(1999.2.17.)


II

 小中学校の最近の授業内容については、いろいろなところで不満の声を聞きます。子供を持つ親にも、現場の先生にも、このところの改定は不評のようで、たぶん数年とはもたずにまた改定されることになるだろうという予想がもっぱらです。
 私は子供も持ってないし、子供を教える現場から離れてだいぶ経つので、自分自身の実感は弱いかもしれませんが、むしろそういう局外の立場であればこその危機感というようなものも覚えずには居られません。こんなことで日本はどうなってゆくのだろうと思えて仕方がないのです。
 教育制度は現状ではいじればいじるほど悪くなる一方なので、一度すべてをご破算にして最初から組み直せというのが、私のぶっちゃけた意見です。いろいろ考えてみても、結局そこに帰着するようです。乱暴すぎると思う人も多いでしょうが、現行制度が確立した昭和16年当時とは、世界情勢も国内状況も違っており、教育の目的そのものが変わってしまっているのだから、小手先の手直しをいくらやってみても無駄な話だと思うのです。しかし、この点については他でも何度も言っているし、そちらに踏み込むとまた話が長くなるので、今日はやめておきます。

 それにしても、今の教育の目的とはなんなのでしょうか。
 昭和16年体制というのは、

 ──近代工業社会、すなわち規格大量生産の時代に適応すべく、均質な能力と価値観を持った国民を育てる。

 という明確な目的がありました。国民が均質な能力と価値観を持っていれば、みんなの欲しがるものが同じなわけですから、少ない種類の製品を大量生産することで効率化を図ることができます。当時の日本の、乏しい資源と技術を有効活用するためには、そうすることが必要でした。
 戦後になって占領軍がやってきても、この方針は変わりませんでした。アメリカもその頃は「均質な能力と価値観」が「民主主義的」だと勘違いしていたようですし、むしろ文部省(当時)などは、軍部からの横槍がなくなった分、いよいよこの大方針に向けて規制を強化してゆけると喜んだと言います。
 学区域制によって、人々は子供を通わせる学校を選べなくなりました。私立などはこの限りではありませんが、私立学校の設立には大変な規制がかけられ、特に私立小学校を新たに作るのは事実上不可能になっています。こうすると、ある地域に算数のできる子ばかりが集まるとか、ある団地に作文の上手な子ばかり集まるとかいうことがあり得ない以上、学校同士が均質化せざるを得ません。
 授業でも、得意科目を伸ばすことよりは、不得意科目をなくすことに重点が置かれました。5もあり1もあるという子供は問題児扱いされ、オール3の方が「いい子」とされました。オール4、オール5ならもっといいわけですが。そのうち小学校では5段階評価をやめるところも増えましたが、名称だけ変えても本質が変わるわけではありません。
 勉強はできないけどスポーツなら得意という子供も、昔からどこにでも普通に居るわけですが、彼らの得意な場面であった運動会などでも、1位の子に賞品を出すことは愚か、ひどい時には「みんな一緒にゴール」などということまでおこなわれていました。得意分野で活躍することができなければ、張り合いもなくなります。
 「均質な能力・価値観」の方針は大成功をおさめたと言ってよいでしょう。いや、日本人本来の横並び志向も手伝って、やや過剰適応気味なまでの成果があったと言えます。規格大量生産の世の中である限りは、従来の教育体制は申し分ない効果を発揮したのでした。

 しかし、物財が充分に行き渡れば、次は差別化の欲求が起こってきます。他の人とひと味違うものを身につけたい、珍しい機能のついている製品を使ってみたい、人の知らない情報をゲットしたい……要するに、個性を主張したくなるのです。
 規格大量生産の時代には、異端者として排斥される存在であった、個性の強い人々が、逆に「カッコいい」存在としてもてはやされるようになります。ひとたびこういう価値観のシフトが起こってしまうと、もう押しとどめるものはありません。みんなと同じ規格大量生産の製品を使っているなどダサいと思うようになり、多品種少量生産の、いわゆるレア物を求めるようになるわけです。
 こういう世の中になると、規格大量生産に寄りかかっていた企業は置いてけぼりをくらいます。30年前の優良企業が、今やことごとくワヤになってしまっているのはそのためです。長引く不況は、規格大量生産でやってきた企業が、多品種少量生産への発想の切り替えがうまくできずに悶絶しているための構造的なものだと言えるでしょう。
 そして、規格大量生産の世の中に過剰適応した教育体制が破綻するのも、当然のことなのでした。
 国家がおこなう教育とは、つまり「国家がどういう国民を求めているのか」という理念の顕れであるはずです。しかし、規格大量生産の世の中に適応した国民という理念は、すでに現実の前に破綻してしまっており、新しい理念を見つけられずに迷走している状態です。
 「国際人として通用する人間を育てる」というようなことがよく言われます。しかしこれは空念仏のようなもので、実体はありません。というのは、「国際人」という概念をどう定義するのか、誰にもよくわかっていないからです。私にもさっぱりわかりません。「国際会議などで堂々と意見を述べ、他国人と議論を交わせるような人」を指すのだとしたら、それはつまり「積極的で筋の通った日本人」であって、「国際人」などというわけのわからない言葉で呼ぶのは失礼だと思います。
 仮にそういう日本人を育てるのが理念なのだとしたら、その理念に向かって大胆に体制を作り直してゆくべきですが、それもやっていません。結局、どういう国民を求めるのかという国家理念そのものが曖昧なのだと思わざるを得ません。

 ゆとりの教育などということがずいぶん前から叫ばれ、小中学校の教科内容がどんどん減らされました。減らされるだけではなく、円周率を3とするとか、首を傾げたくなるような内容が多くなりました。
 この円周率に関しては、
「どうせ近似値なんだから、3.14だって正確なわけじゃなし、3にしたって構わないじゃないか」
という主張も見かけます。問題は近似がどうのということではなく、なんでも整数で処理できるという発想を植えつけてしまうところにあるのですが。
 小学校の先生に聞いたのですが、そもそも小数は第1桁までしか扱わないことになったとか。扱わないと言っても、小数第1桁まである数字同士を掛け算すればどうしたって第2桁が出現するわけで、その辺どう説明する気なのでしょう。
 ゆとりの教育というのは、それまでの詰め込み式の教育への反省から、もっと人間性を伸ばす教育をというつもりで唱えられるようになったと思うのですが、いったいゆとりの教育で育った今の子供と、詰め込み教育で育った30年前の子供と、どちらが人間性豊かかと考えると、首をひねりたくなります。最近私はあちこちで発言しているのですが、

 ──「ゆとりの教育」のおかげで、子供たちがそれまでと違って、のびのびと素直に育つようになりました!

 という実例報告が、ただのひとつでも出ているのなら見てみたいものです。
 基礎的な知識というのは、はっきり言って詰め込むしか仕方がないものであって、子供の頭脳は詰め込まれれば吸収してしまうものなのです。そうやってなるべくたくさんの基礎知識を吸収しておけば、次の段階でそれらを関連づける類推や予測などの能力が芽生えてくるわけで、基礎知識そのものを減らしてしまえば、類推能力・予測能力も貧弱にならざるを得ません。
 弊害は詰め込むこと自体ではなく、詰め込み方が千篇一律で工夫のないものだったという点にあったのです。子供にも個性がありますから、算数が好きな子も居れば国語が得意な子も居る、そういう差を無視してどの子にも均質な学力をつけさせようとしたものだから、人間性が疎外されたというだけのことだったと思います。
 それを、

 ──それなら詰め込む量を減らせばよいだろう。

 と短絡したのが大間違いでした。
 人間性が疎外されていたはずの30年前の小学校では、学級崩壊などほとんど起こっていなかったという事実ひとつだけでも、最近の方針が何か間違っていることがわかります。

 世界中どこの国でも教育には力を入れています。国家を発展させ、強力に指導してくれるエリートを育成するために、国家のエネルギーの多くの部分を投入しているところが少なくありません。
 そんな中にあって、日本だけはエリート育成を嫌って、国民の学力を低下させる政策を採り続けているのは、どういう料簡なのかさっぱり理解できません。どこか日本の国力を低下させようとたくらむ外国に政治家や役人が操られているとでも考えない限り、客観的に見て説明はつかないような気さえします。
 日本人はもともと勉強好き、教育好きであるはずです。江戸期以前、お上がなんにもしなくても、全国に自律的に寺子屋などが林立し、多くの子供たちが通っていました。18〜19世紀頃の日本人の識字率は世界でもずば抜けて高率でした。
 そんなわけで、現在学校で教わる内容が減ると、たちまちそれを補うべく塾が繁盛する仕組みになっています。学校以上に授業内容を厳しく吟味し、教師にも高い能力を要求している塾も多く、この分だと塾の方がメインで、学校が補助的な役割を果たすに過ぎないことになるかもしれません。
 私などは、それもよいではないかと考える方なのですが(ちなみに、私は専門のレッスン以外、塾と名のつくものには一度も通ったことがありません)、もし学校が生き残ろうとするならば、一刻も早く具体的な理念を打ち出して、その理念に向かって大胆に再構成をおこなう必要があると思います。
 まさか政府や文部科学省が、国民の学力を低下させたいと望んでいるはずはないと信じたいものですが、今のところまさにそう思われても仕方のない状態です。小手先の改革ではなく、一度白紙に戻して組み立て直すという勇気を、政治家にも役人にも持って貰いたいと思います。

(2003.5.31..)

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