忘れ得ぬことども

「ピーナッツ」讃歌

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 何を隠そう、私は「ピーナッツ」のファンであります。
 「ピーナッツ」と言ってもぴんと来ない方がおられるかもしれませんが、スヌーピーと言えば知らない人はいないでしょう。スヌーピーの出てくるマンガが「ピーナッツ」なので、日本では比較的キャラクターばかりが親しまれていますが、本来はアメリカのチャールズ・M・シュルツがかれこれ半世紀前から描き続けている新聞連載マンガです。
 今や、何カ国語にも翻訳されて、世界中で読まれています。日本のマンガもだいぶ国際的な評価が高まってきましたが、「ピーナッツ」は新聞連載ということで、読者の数においては比較を絶するオーダーになるはずです。
 当然ながら、ネットでも公式サイトが設置されています。「ザ・オフィシャル・ピーナッツ・サイト」にはここの「仕入れ先一覧」からもリンクしていますが、1週間遅れとはいえ毎日新作を読むことができます。英語の勉強にもなりますので、私もなるべく毎日読むようにしています。

 1968年、人類が初めて月に第一歩を記した時の着陸船の愛称がスヌーピー、母船の愛称がチャーリー・ブラウンでした。30年前のその頃すでに、NASAでも「ピーナッツ」が日常語となっていたのがわかります。それにしてもマンガのキャラクターの名前を愛称にするとはNASAの人々も茶目っ気があるではありませんか。もし将来、日本が月ロケットを飛ばしたとして、例えばドラえもんとのび太というような愛称をつけるシャレ心が、科学技術庁のお役人にあるだろうかと考えると、どうも心許ない気がいたします。
 ともあれ、月ロケットの愛称に「ピーナッツ」のキャラクター名がつけられたことで、日本でもこのマンガが認知され始めました。とはいえ、上に述べたように、どうもキャラクター先行で入ってきたようで、ミッキーマウスあたりと同列に見られてしまったのは残念なことでした。
 詩人の谷川俊太郎氏が「ピーナッツ」の翻訳を始めたのも、その頃からだったのではないかと思います。谷川氏は疑いもなくわが国を代表しうる詩人のひとりですが、「ピーナッツ」の翻訳こそは、彼の全詩作に匹敵するだけの業績と言ってよいと私は考えています。最近、「ちびまる子ちゃん」さくらももこさんの訳でも出ていますが、やはり風格の点で谷川訳に一日を譲ります。

 谷川氏の訳した「ピーナッツ」は、今は無き「鶴書房」の、いかにもペーパーバックという感じの粗悪紙を用いたコミック本として次々と刊行されてゆきました。ちょうど私が小学生の頃からで、当時はちょっとした本屋へゆくと、「ピーナッツ」の専門コーナーが設けられていたものです。日本における第一次ブームと言えるでしょう。
 私はマンガというものを買って貰ったためしがなく、自分の小遣いで買っても親にいやな顔をされたものですが、鶴書房の「ピーナッツ」だけは、英語の勉強になるとごまかして、だいぶ買いました。もちろん英語の勉強などしませんでしたが、登場人物がしょっちゅう口にする間投詞「Good grief!」やれやれいやはやなんてこったい、という程度の意味)などはすっかり覚えてしまって、当時の日記の中でも使ったりしています。
 もっとも、当時の私に、このマンガの味わいがどのくらいわかったものか。日本の4コママンガと違って、何回かストーリーが連続する場合があって、そういうのは展開も面白く、楽しんで読めたのですが、1回完結のものはよくわからないことが多かったように思います。特に、ダジャレ落ちみたいな作品も結構あって、そうなるとお手上げです。

 ただ言えることは、「ピーナッツ」を読みながら、子供だった私に、別に違和感と言うほどのものがなかったという点です。チャーリー・ブラウン、ルーシー、ライナス、ペパーミント・パティなどの登場人物のものの考え方や感じ方は、まったく身近なものとして私に感じられ、異国の子供たちという感覚はほとんどありませんでした。
 その頃の感覚をあとから考えて、日本人と言い、アメリカ人と言っても、普通の人々の考えることなど、そんなに大差はないのだということに気づかされたものです。
 日本になかった習慣、例えばサマーキャンプなどが出てくると興味深かったものですが、同時に、登場人物が必死になってキャンプ行きから免れようとしている有様を見て、この行事はアメリカの子供たちにとってもあんまりありがたくないことらしいというのもわかりました。

 アメリカの普通の人たちの考え方や感じ方を、端的に理解させてくれるのが「ピーナッツ」であることがだんだんわかってきました。出てくるのは子供ばかりですが、セリフなどはほとんど大人のセンスで書かれています。ビジネスなどでアメリカ人とつき合うことの多い人、あるいはアメリカに赴任するほどの人であれば、必読書と言って差し支えないのではないかと思うのです。おそらくアメリカ人の交渉相手は、まず間違いなく読んでいるはずですので、それを持ち出すだけで会話はウイットに富んだものとなり、相互の信頼感も生まれるに違いありません。
 最近は第二次ブームと言うべきか、角川書店講談社など大手出版社から、復刻版や新編集バージョンが次々と刊行されていますので、入手も容易です。もっとも私は、昔の鶴書房のあの粗悪紙の手触りが忘れられませんが……(^_^;;

(1998.8.4.)

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 私の友人に、神奈川中央バスというバス会社に勤めている男がいますが、この神奈川中央バスが最近、「ピーナッツ」をイメージキャラクターとして使っており、バスの車体にピーナッツキャラクターをでかでかとペイントしたものを走らせたりしています。また、東京・神奈川・埼玉の1都2県のバスにはほとんどどれでも乗れるというプリペイドカード「共通バスカード」というのがあって、これは時々各社で意匠を凝らした記念カードを出したりしていますが、神奈中バスでは、やはりピーナッツキャラクターのカードをよく発行しています。
 友人はそのカードを、時々集まりに持ってきてはみんなに売りつけていますが、この前見ると、ピーナッツキャラクターが和服を着て、書き初めをしたり羽根突きをしたりしているデザインのカードがありました。
 「これ、まさかシュルツが自分で描いたの?」
 「いや、日本に何人か、ピーナッツキャラを描いてもよいと、ユナイテッドフィーチャーシンジケート(「ピーナッツ」の著作権を取り仕切っているエージェント会社)から許可を貰っている人がいてね、その人たちが描いたらしい」
 これには驚きました。日本に何人かいるのなら、他の国にも何人かずついるのでしょう。
 どうも、日本のマンガ産業とは、だいぶシステムが違うらしいのです。

 私たちの感覚からすると、例えばドラえもんは故藤子.F.不二雄氏が自ら描いたもの以外ではあり得ません。プロダクションのスタッフが代わりにペンを入れることくらいはあるでしょうが。
 子供雑誌の特集ページなどで、別人の手になるドラえもんを見たことはありますが、子供の眼にも、それは贋物だとわかる代物でした。ドラえもんはあくまでも藤子氏の創造物であり、藤子氏以外の人物がドラえもんを描くなどけしからんことだという感覚が私たちにはあります。たとえ描いたとしても、それはパロディかフェイクでしかないと思います。だからこそ、藤子氏の早い死に、私たちはショックを受けざるを得ませんでした。新しいドラえもんのマンガは、もう永遠に読むことができないのです。
 しかし、アメリカではそうでもないらしい。考えてみれば、「スーパーマン」なんかは転々と作者を変えながら70年以上も続いているわけです。原作者はいても、そのキャラクターを描くことについて多くの人にライセンスを与え、そのライセンス料を坐して吸い上げるということがビジネスとして成り立っているわけです。
 なんとなく、アメリカの方が日本より一般に個人のオリジナリティを大切にしているような気がするのですが、ことマンガに関しては、話は逆のようですね。
 そうすると、たとえシュルツ氏が亡くなっても(1922年生まれですから、もうかなりの高齢です)「ピーナッツ」は続くのかもしれません。嬉しいような釈然としないような。

 私は「ピーナッツ公式サイト」で毎日、1週間遅れの「ピーナッツ」を読んでいますが、なるべく辞典を使わないようにしているので、オチがよくわからないことはしばしばあります。しばらく前に、日本語版の公式サイトを作ろうという話があって、その準備のためのアンケートに答えたりしましたが、まだお目見えしないようです。
 (【後記】現在は日本語ページがオープンし、なかなかの盛況です。)

 最近の傾向は、というよりしばらく前からですが、昔に較べて登場人物が少なくなったことが感じられます。ネタがパターン化しているようでもあります。
 初期の「ピーナッツ」にはずいぶんいろんな登場人物が出てきました。ブロンドのパティ、黒髪のヴァイオレット、天然パーマのフリーダの三人娘、ホコリ高き男ピッグ・ペンナンバー5などといったキャラクターが登場しなくなってかなりになります。オールドファンとしては残念なところ。
 三人娘が出なくなったのは、ペパーミント・パティマーシーが登場したのと入れ替わりのような感じでした。確かにこのふたりの異様なキャラの立ち方に較べると、初期の三人娘は個性に乏しいと言えます。ルーシーのキャラクターとそんなに差がなく、年柄年中チャーリー・ブラウンをガミガミと叱りとばしているだけで、それならルーシーひとりで充分だったというわけでしょう。
 その後、女の子のキャラクターは結構次々と出ています。ルーシーの弟ライナスが憧れているリディア、チャーリー・ブラウンの妹サリーの友達で超能力者のユードラ、スヌーピーと時々テニスのダブルスを組む烈女モリー・ボレー……と、時々ではありますが、強烈なキャラクターが登場します。
 一方、男の子のキャラクターになるとお寒いもので、最近ではチャーリー・ブラウンとライナス、それに古くからのレギュラーでルーシーが蜿蜒と片想いし続けているシュローダー、唯一の黒人キャラであるフランクリン、そしてルーシーとライナスの弟のリランくらいしか出てきません。このうちシュローダーとフランクリンは最近大変影が薄くなっています。ふたりとも比較的やり手タイプのキャラでしたが、残りのチャーリー・ブラウン、ライナス、リランの3人はどちらかと言うとダメ男タイプで、アメリカの男性の地位を象徴しているようでもあります。

 リランは初登場はずいぶん前なのに、かなり長いこと、ママの自転車の荷台に坐ってぶつぶつと独り言を言うだけのキャラでした。この頃になって、思い出したように幼稚園に行き始め、チャーリー・ブラウンより主役っぽい状態になっています。本来主役のチャーリー・ブラウンの方は、このところ、物わかりのいいお兄さんという感じの役割が多く、幾分脇役に廻ったかと思われます。数ヶ月前に、定番の、ルーシーの構えているフットボールを蹴ろうとして空振りし自爆するギャグが登場し、ああ健在だなと思ったものでした。もっともそのルーシーも、かつてライナスに対して見せたイジワル姉さんぶりに較べると、リランに対しては結構優しいお姉さんしていて、昔の毒気はあまり見られなくなりました。
 つれづれに語っているときりがありませんね。そのうち「ピーナッツを語る」専用ページでも作ろうかな。

(1998.12.21.)

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