忘れ得ぬことども

川越小江戸巡り

 川越小江戸巡りをしてきました。指導している合唱団のレクリエーションです。
 埼玉県の名物のひとつに「十万石饅頭」というのがあって、地元埼玉テレビではよく、
「うまい! うますぎる!」
という名調子のCMが流れるのですが、この十万石というのが、かつての川越藩の石高なわけです。もっとも、藩としての実際の石高は、江戸期を通じ、最小で1万石、最大で17万石まで変化したようですが。
 「生類憐れみの令」で不評な徳川綱吉の懐刀であった柳沢吉保をはじめ、川越に配置されたのはほとんどが有力な幕閣でした。
 徳川幕府は独特の人事方式をとり、地位と権限と収入を完全に分離しています。地位が高いのは京都の公家ですが、みんな貧乏暮らしで、なんの権限もありません。石高が高いのは外様の大名ですが、これまた幕府に対してはなんの権限もありません。幕政を担っていたのは、石高も位階も高くない譜代の幕臣たちです。この方式、いっそ現代にも応用すればどうかと思うのですが、ともあれ、そうした中で、川越十万石というのは幕閣に与えられる領地としてはかなりの大封だったようです。言うまでもなく、江戸の外郭の護りという意味があったわけです。
 埼玉県ができた時に、なぜ川越が県庁所在地にならなかったのかと不思議に思うような街なのですが、多分、有力な幕閣の領地だったということが逆に避けられる理由になったのでしょう。城は破却され、街も明治時代の大火のため半分近く焼けてしまい、一時はすっかりさびれ、サツマイモの産地としての名ばかり上がりました。
 「栗より(9里・4里)うまい13里」
という言葉があります。この場合13里というのは川越産のサツマイモを指しているのですが、江戸から川越に至る、川越街道の道のりがちょうど13里ほどであったと言います。うまいキャッチフレーズを考え出したものです。そのように川越のサツマイモは昔から有名でした。川越に再び脚光があたるのは、戦時中の食糧基地としてのことだったのです。
 もちろん現在は、ベッドタウンとして人口も多く(埼玉県下第4位)、JR埼京線東武東上線西武新宿線が通じて便利な街になっています。
 しかし、一旦忘れられたような形になっていたのが幸いしてか、この街には昔ながらの、蔵造りの商家が沢山残っています。そのため「小江戸」と称して観光にも力を入れています。
 小江戸巡りのバスが1時間ごとに巡行し、徳川家光の乳母であった春日局の化粧部屋を移築してある名刹喜多院、城の本丸を復元した本丸御殿(近くに市立博物館と、わらべうた「通りゃんせ」発祥の地と言われる三芳野神社などもある)、それに蔵の街菓子屋横丁などを連ねて走ります。1日フリー乗車券が500円で、何度でも乗り降りできますし、この乗車券を持っていると割引や特典のつくお店もあります。
 都心からわずか40分ほどで到達できる通勤圏に、こんな街が残っているのは、なんだか不思議な気がします。
 蔵造りの街としては、飛騨の高山が有名で、私も行ったことがありますが、あそこはむしろ、
 ――これが古都だ。これが民芸というものだ。さあさあ感動しろ。
 と迫られているような感じで、なんだか息苦しい気がしたのを憶えています。川越の蔵の街は高山に較べればずっと小規模ですが、そういう押しつけがましさは感じません。
 夏のように暑い日でしたが、蔵の中にはいるとひんやりとして、汗が消えて行く想いがしました。お昼御飯も、蔵の中でいただきました。
 ただ、私がいちばん感動したのは、蔵の2階の窓に、洗濯物がずらずらとぶら下がり、布団が干されているのを見た瞬間でした。観光用のディスプレイではなく、この蔵の街には、今でも人の生活する「日常」があるのです。そのことがなんだか、胸が詰まるように嬉しい気がしました。
 東京近辺の方々は、一度川越を訪ねてみてはいかがでしょう。

(1998.5.23.)

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