忘れ得ぬことども

中伊豆での演奏会

 1998年の4月19日、20日と、伊豆に行ってまいりました。
 純然たる旅行ではなく、半分はお仕事です。
 「中伊豆リハビリテーションセンター」という施設で、アマチュア女声合唱団「磯辺女声コーラス」のボランティア演奏会があり、その伴奏を頼まれたわけです。
 合唱団のメンバーだった人が厄介な病気にかかり、その施設でリハビリをやっていた関係で、今回の演奏会が企画されました。
 もちろん、ちゃんとしたホールなどありません。施設の中の研修室のような部屋で行うのです。ピアノも、滅多に使っていないアップライトで、演奏環境としては決して良いとは言えない状態です。
 普通、こういう施設での演奏となると、パイプ椅子などがずらずらと並ぶのですが、今回行ってみると、椅子はわずかでした。それは、入院者の大半が車椅子の生活をなさっているからなのです。車椅子ごと入ってきて聴くというわけです。
 伊豆箱根鉄道の終点・修善寺駅からの送迎バスで、私たちが現地に着いたのは、開演40分ほど前のことでしたが、すでに部屋にはちらほらと入院者の姿がありました。そして開演時刻には、部屋に入りきれないほどの人たちが来てくださいました。生演奏を聴く機会など、ここではまずないのですから、よほど楽しみにしてくださったのでしょう。
 プログラムは、前田憲男氏編曲の英国民謡3曲ほど、それから私の構成編曲した、北海道の歌メドレー「白の地平線」、及び11日の項で取り上げた「TOKYO物語」が合唱のステージで、それから指揮者の清水雅彦氏(本来はテノール歌手です)による日本歌曲の独唱が2曲、なぜか私も1曲ピアノ独奏をさせられました。
 いずれもみんながよく知っているような曲ばかりでしたので、楽しんで貰えたようです。
 いちばん前に坐っていた、知恵遅れらしい若い男性は、一曲終わるたびに、
「いい、ぞぉぉぅ」
と声援をかけてくれて、その都度なごやかな雰囲気が流れました。
 私はピアノの位置上、ずっと後ろ向きで弾いていることになりますので、気づかなかったのですが、「白の地平線」を演奏しているうちに、客席で泣き出した年輩の女性がいたらしい。どうやら北海道出身の人で、故郷を思い出して泣けてきたのでしょう。
 それはよいのですが、困ったことに、それを目撃した合唱団員の方も貰い泣きをはじめてしまい、だいぶ声が出なくなっていたようでした。休憩の時に、みんなまだ泣きながら、
「これだから私たちはプロにはなれないわねえ」
と言い合っていましたが、しかし、貰い泣きするほどの感受性がないようなプロなら、そんなプロにはならない方がましだと私は思いました。
 「TOKYO物語」も内容が内容なので、泣いてる人、いましたねえ。終わってから後ろを振り向くと、ハンカチを眼に当てておられる方々、2人や3人ではありませんでした。
 われわれの演奏が終わったあと、入院者のひとりの初老くらいの男性が、ひょろひょろと前に出てきて、自分も歌ってもいいかとの意味のことを言いました。かすれ声で何やら歌っていましたが、結局最後まで歌いきれずに終わるという、ほほえましい一幕もありました。
 立派なホールで演奏するのもいいものですが、こういうところでの本番も、私は好きです。お義理で聴きに来ているような人はひとりもおらず、みんな本当に喜んでくれているという実感が湧くからです。
 喩えが適当かどうかわかりませんが、フランスの現代音楽の巨匠オリヴィエ・メシアンの代表作のひとつに、「世の終わりのための四重奏曲」という作品があります。これはピアノ・ヴァイオリン・チェロ・クラリネットという妙な編成によるアンサンブルなのですが、実は大戦中にナチスの収容所で作られたものです。楽器編成の奇妙さは、収容所の中ではそれしか楽器が調達できなかったという事情によるものです。
 出ない音もあるオンボロのアップライトピアノ、弦が1本なくなったヴァイオリン。コンクリート打ちっ放しの寒々とした部屋。こんなひどい演奏環境も滅多にないでしょう。
 しかしメシアンは後年、「私の生涯で最高の作品初演」だったと述懐しています。それは、娯楽どころではなかった収容所の人たちが、本当に喜んで聴いてくれたのだという手応えが、ずっしりと感じられたからだろうと思います。
 ともあれ、とてもよい演奏会でした。
 そのあと、温泉にも泊まれて、私としては言うことがありません。 

(1998.4.20.)

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