忘れ得ぬことども

「TOKYO物語」の周辺

 今のところ私は3冊ほど楽譜の本を出しておりますが、いちばん売れているのが「TOKYO物語」と称する女声合唱用の編曲本です。他の2冊が一向に増刷にならないのに対して、この本だけは増刷に増刷を繰り返し、まだ初版が出て丸2年に過ぎないというのに、すでに第7刷が発行されています。
 もっとも楽譜というものは普通の本に較べるとマーケットが極度に小さいですから、大体普通の本より二桁落とした規模で考えていただきたいのですが、大体1回の増刷で1000部を刷ります。従って「TOKYO物語」は7000部くらい出たことになります。二桁上げて普通の本並みに考えると、70万部くらいに相当する売れ行きなわけで、これはわれながらかなりなものだと思っています。
 これはもともと共立女子大学の合唱団に委嘱されて編曲したものなのですが、最初の依頼は、単に「ナツメロのメドレー」ということでした。それではあまりに漠然としておりますので、何度かの打ち合わせの末、
 ・昭和20年代の歌謡曲を年代順に並べる。
 ・東京を舞台としたもの。
 ・女性の姿を描いたもの。
という方針を決めました。そしてその結果、「リンゴの唄」「東京の花売り娘」「星の流れに」「東京ブギ」「青い山脈」「銀座カンカン娘」「君の名は」「お祭りマンボ」「ここに幸あり」という、日本合唱界の裾野を支えるいわゆる「お母さんコーラス」のメンバーが泣いて喜びそうなラインナップとなったわけです。よく見ると上記の3原則に当てはまらない歌がそれぞれいくつか含まれているようでもありますが、流れとしてはスムーズになりました。
 この本がやたらと大受けした原因は、そうした内容と、それから普通女声合唱はソプラノ・メゾソプラノ・アルトの3パートになっているのが原則なのですが、これは基本的に2パートになっているというお気軽さにあるのだろうと思います。
 売れるのが編曲ものばかりというのは、一応作曲家であるつもりの私自身にとっては痛しかゆしのようなところがあるのですが、しかし合唱界に求められていたのはこうしたものだったのかと、ほとんど茫然として瞠目しているところでもあります。

 日本合唱界の裾野を支える、と上に書きました。日本の合唱界というと、まず東京混声合唱団(東混)や日本合唱協会(日唱)といったプロ合唱団が頂点にいます。まったく別系統で、二期会合唱団のようなオペラ専門の合唱団もありますが、まあこれはいま考えないことにします。
 これにかなり肉薄した状態で、松原混声合唱団OMPなどトップレベルのアマチュアがあります。こと合唱に関しては、日本ではプロとアマチュアの差は僅かで、プロの方はより短期間で曲を仕上げられるというだけの差と言ってもそれほど過言ではありません。もちろん、構成員ひとりひとりの力量は、本来ソリストとして訓練を受けているプロ合唱団の方がはるかに上なのですが、団の力量が個人の力量の総和にはならないところが合唱の面白さで、ソリストとしての訓練がかえって仇になるということさえあるのです。おまけに仕事として歌っているプロより、長い期間をかけてじっくりと曲とつきあってゆくアマチュアの方が、曲に対する理解や思い入れもずっと深かったりします。
 まあこういうプロやトップレベルのアマチュアがあり、それからコンクールの全国大会に出てくるような準一流レベルの合唱団があります。
 作曲家としては、せめてこのくらいのレベルの合唱団を対象にして曲を書きたいと思うのですが、残念ながらこれもまた、ほんの一握りの団でしかありません。つまり、このレベルの曲を書いても、マーケットは著しく小さくて、楽譜を出版してもとても採算に合うものではないわけです。
 量的にもっとも多く、真の意味で底辺を支えているのが、ほとんど全国どこの街へ行っても見ることのできる「お母さんコーラス」なのです。子育てが一段落して、ちょっと歌でも歌ってみようかという程度の気持ちで始める人たち。お金も大してかかりませんし、資格や専門的な技術が要るわけでもありません。ただ、歌が好きだというそれだけがあれば充分です。
 コンクールに出たり、立派なホールで演奏会を開いたりなどということも考えません。区や市町村でたいてい年1回くらい開催される「合唱のつどい」といった行事に参加して、僅かに10分くらいのステージをこなすのをこよなく楽しみにしています。
 難しい歌など歌う気はなく、ただなんとなく1回1回の練習が楽しければそれでよい、こう書いてくるとなんだかひどくわびしい気がしますが、こういうタイプの合唱団が、数としては圧倒多数を占めているのが現実です。
 楽譜を売ろうと思えば、まずこのあたりを対象にして考えなければなりません。「TOKYO物語」の場合、この層のニーズにぴたりと合致したようです。当初、私は別に出版に持ち込む気もなかったのですが、出版社の方で目をつけて出してくれました。さすがに慧眼であったと思わざるを得ません。
 そんなに売れれば、さぞかし印税が入って懐が暖かいだろうと思われるかもしれませんが、最初に書いた通り、マーケットが小さいですから、そんなにはなりません。それに編曲ものの印税は4%に過ぎませんので、1冊売れて50円足らずです。7000部でも30万円あまりで、中堅のサラリーマンの1ヶ月分の収入くらいにしかならないのです。世の中は甘くありません(^_^;;

(1998.4.11.)

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