忘れ得ぬことども

ブラインド・ダイヤラー

 どういうものか、電話をかけるという行為が苦手です。業務上の連絡でさえ、ダイヤルする前にはひどく緊張し、言うべきことを事前にすっかり頭の中で組み立ててからでないとかけることができません。
 ましてや、個人的な電話をかけるとなると、ほとんど惑乱状態になります。なんとなく話したいから電話する、などということは、まず決してできません。どうしても話したい場合でも、知恵の限りをふりしぼって「用件」をひねり出してからでないと無理です。
 現代に生きながら、因果な性分だと思いますが、こればかりはどうしようもないようです。
 誰かを好きになっても、電話をかけるなどとんでもない話で、ダイヤルしてもきっとあがってしまって何ひとつ話せないでしょう。それで私は常に、手紙を書いています。手紙はインパクトとしては弱いのかもしれず、埒のあいたためしがありません。
 では、私の電話はいつも用件のみで短いのかと言えば、それがそうでもないので、長電話の記録はかなりあるのです。5時間というのが最長だったかな。
 要するに、一旦通じてしまえば、電話で話すこと自体はそれほど苦痛ではないようです。私が苦手なのは、あくまで電話を「かける」行為であるらしいのです。

 そんな私なので、「ブラインド・ダイヤラー」の存在が不思議でなりません。
 「ブラインド・ダイヤラー」というのは実は私の造語なのですが、不意に誰かと話したくなって、指の動くまま適当にダイヤルするという人のことです。
 そんな人がいるのかと驚かれるかもしれませんが、私の家の電話番号は適当に押しやすいのか、過去3回、そういう人から電話がかかってきたことがありました。
 3回とも、女性でした。むろんみんな違う人です。男はやはり、そういうことはしないようです。
 私の変な点は、それぞれ1時間半ずつくらい、彼女たちの話し相手になってやったところでしょう。
 2回目だけは、妙に明るい女の子で、完全にテレクラ感覚だったように思われましたが、1回目と3回目は、受話器を取ると、しばらく何も言わないのです。
 「ブラインド・ダイヤラー」をご存じない方は、多分、この最初の数十秒で、いたずらの無言電話だと思って切ってしまっているのだろうと思います。
 私は無言電話をかけられるような憶えがなかったので、
「もしもし?」
と問いかけました。受話器の向こうで、なんだかすすり泣きのような声が聴こえます。私は驚いて、
「どうしました?」
「あの……」
か細い声がします。
「少し……お話ししてもいいですか……?」
 ひどく思いつめた調子ですので、つい私は
「いいですよ」
と答えてしまいました。
 1回目の女の子は、
「あの……失恋したこと、ありますか?」
「ありますよ」
「その時……死んでしまいたいとか思いませんでしたか?」
「それは……」
これはいけない、と思って、話を聞いてあげることにしました。
 3回目の女の子は、
「男の人って……彼女がいても、他の女の子に眼が行ったりするんでしょうか」
「人によるとは思うけど……彼氏が目移りしてるの?」
「ええ……」
 こんな話から始まって、それぞれ1時間半ほど、相手をしておりました。
 幸いいずれも、電話を切る頃にはとても明るくなっていました。誰とも知れぬ相手と話し込んで、気が晴れたのでしょう。私としても、大げさに言えば彼女たちの魂を救ってあげられたような気がして、決して悪い気分ではなかったのです。
 それにしても、相手が私のような変な男だったから話し相手にもなりましたが、たいていの場合、このような電話が来れば、いたずらと見なされて切られてしまうに違いありません。それでも、いい加減に電話してつながった、見も知らぬ相手と話してみたい、という気になるものなのでしょうか。私にはほとんど信じがたいのですが。
 ――自分でやるつもりはないけど、気持ちはわかる。
 という人もいましたが、読者の皆さんはいかがでしょうか。 

(1998.3.21.)

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