忘れ得ぬことども

天才について

 昨日アップした「似而非随筆」12.ライバル音楽史(その1)の中で、「天才」についてちょっと考えるところがあります。文章の性格上あまり深入りはしませんでしたが、こちらで少し詳しく書いてみたいと思います。と言っても、別に考察と言うほどのことではなく、つれづれに思うままをなんとなく書くだけですが。
 天才ということについては私は昔から興味があって、中学の時の卒業文集には「天才論」なる文章を書いたくらいでした。当然、いろんな文献も読んだりしたのですが、いまだによくわかりません。
 類語として、英才、秀才、異才などの言葉があります。英才というと知能指数がずば抜けて高いといったイメージがありますね。天才についても、知能指数で測定しようという試みは何度もなされていますが、うまく行ってはいないようです。例えばモーツァルトがIQ180だったという話がありますが、これは彼の早熟さを表現してはいても、最終的な知能を表しているとは考えられません。モーツァルトは性格的にすこぶる子供っぽく、その立ち居振る舞いは到底知能の高い人とは思えず、音楽のみに突出した奇形の天才であったことはよく知られています。
 秀才というと、努力家という印象を与えられますね。ただ、いわゆる「ガリ勉」を連想してはいけないようで、ガリ勉しなくても勉強がよくできるのが秀才というものでしょう。ただ、既成の概念を一変させてしまうような凄みは、秀才という言葉には感じられません。すでにある枠の中ですぐれた人という感じです。
 異才というのは聞き慣れないかもしれませんが、電話帳を丸ごと1冊暗記してしまったり、10桁以上のかけ算を一瞬でやってしまったりするような人を指すようです。これはおそるべき才能と言ってよいのですが、能力がそこで完結してしまい、なんら創造的な仕事に結びつかない点が天才と違うところです。
 なんにしても、天才の条件は「創造性」にある、ということにはあまり異論のある人はおられないと思います。
 ただ、「創造性」なるもの、定量化ができないのですね。
 無から有を生み出すのはもちろん創造ですが、いかなる天才といえども、全くの無から生み出しているのかと言えばそんなことはありません。まわりにあった技術、先人の作品、そういったものから多かれ少なかれ触発されて新しいものを生み出すわけで、どこからどこまでが彼の「創造性」であったか、ということを測定することは無理でしょう。
 私はある時期から、天才というのは固有に存在するものではなく、その業績が社会の要請や嗜好に合致した場合に出現するものではないかと考えるようになりました。特に私たち表現者(詩人、作家、音楽家、画家などなど)の場合、その表現を受け容れてくれる人々がいて初めて天才が意味を持つのではないかと思うのです。ベートーヴェンは無人島に置き去りにされてもなお楽聖でありうるでしょうか。ベートーヴェンの音楽を受け容れる聴客のいないところで、彼がいくら「第九」を考えてみてもあまり意味はないのではないでしょうか。
 同時代に受け容れられなかった天才、というのはもちろんたくさん存在します。しかし、彼らを天才と認定するのは後世という「時代」であることを忘れてはいけません。認められるまでは、ただの無名の人であって、天才とは呼べないのではないか、と私は考えるのです。
 こうした意見に異論のある方もたくさんおられるでしょう。私もまだまだ認識不足だと思います。討論のようなことができたら面白いな、と思っています。

(1998.3.17.)

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