忘れ得ぬことども

長野オリンピックに思う

 世間は、オリンピックに湧いていますね。
 普段より、ネット上の人口密度が低いような気がします。
 例えば今日などは休日なわけですが、テレビにかじりついている人が多くて、パソコンに向かっている人などそれほど多くないのではないかしら。
 「途中下車」の第1回にも書いたのですが、日本で冬季オリンピックができるなどということは、ヨーロッパ人から見ると不思議な気がするのではないかと思います。26年前の札幌オリンピックの時、信じない人が結構多かったという話を聞いたことがあります。
 というのは、日本は緯度が低いからです。日本最北端の稚内と、イタリアのミラノがほぼ同じ緯度(北緯45度)ですから、ヨーロッパ人の感覚からすると、日本は常夏の島みたいなイメージがあるはずです。ちなみに札幌(北緯43度)ブルガリアのソフィアとほぼ同じ。青森(41度)でマドリッド、バルセロナ、ナポリなど、仙台(38度)でリスボン、アテネなど、そして長野は36度30分ほどで、もはや北アフリカであるアルジェとほぼ同じ緯度なのです。
 緯度が低くても、地形や海流によって、気温も違うのだということを、頭ではわかっていても、なかなか感覚的に理解するのは難しいのではないでしょうか。
 逆に言うと、日本という島国は、実に多様な気候を備えているものだと思います。
 東京と長野など、新幹線で80分ばかりで結ばれてしまいますが、東京は少しばかりの雪で大騒ぎになるのに、長野はオリンピックができるほどの雪が降っている。
 200キロや300キロばかり離れているだけで、これほどの差があるところなど、そうそうはありません。
 気候の多様性は、風土の多様性です。そして、風土の多様性は、人間の多様性でもあります。
 日本人は単一民族で、均質で、非常に画一化されていて、個性がなくて、みんなおんなじような顔をしておんなじように振る舞う。
 外国からはそんな風に思われていますし、日本人自身もそう思っています。
 しかし、本当は、違うのではないかという気がします。
 本当は、非常に多様な人々であって、それらがこれだけまとまっていること自体が奇跡的なことであるのかもしれません。
 長野にちなんで、面白い話を聞いたことがあります。
 「長野県民歌」というのがあって、長野県では学校で必ず教えられ、長野県出身である限り、誰でも、どこでも歌えるのだそうです。私もある団体旅行で、旅館の夕食の時、紙の敷物に県民歌が印刷されていたところ、団体の中にいた長野県出身者が、いきなり声を合わせて歌い出したのであっけにとられた経験があります。
 私は埼玉県川口市に住んでいますが、埼玉県歌も知りませんし、川口市民歌というのもあるのですが宙ではとても歌えません。長野県はすごいなあと思いました。
 実は、長野県民というのは、放っておくと4つの地域に分裂してしまうのだそうです。昔から信濃というひとつの分国だったわりには、信濃全域を長期に渡って支配した者がいないせいか、伊那地方、諏訪地方、佐久地方、それに北信地方で、お互いに仲が悪く、いがみ合ってばかりいたと言います。
 県民歌は、そういうまとまりの悪い4つの地域に、連帯感を持たせるために歌われているというのです。アメリカが、多様な人種やグループをまとめるために、ことあるたびに星条旗への誓いを行わせるのとよく似ていますね。
 日本全体も、実は放っておくと、結構バラバラになってしまうのかもしれないのです。
 画一化はいかんというのが大方の意見でしょうが、こう考えると、微妙なところです。 

(1998.2.11.)

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