忘れ得ぬことども

マダムのメモリージャーニー

 また小旅行の記録です。なんだか私は遊んでばかりいるようですが、記録のない時期は忙しく仕事をしていたのだと思し召していただければ幸いです。
 今も仕事が残っていないわけでもないのですが、昨日(2010年12月23日)、マダムとふたりで仙台へ行ってきました。
 最初は高崎パスタを食べに行こうというくらいのマダムの思惑だったのですが(なんでも最近、高崎が「パスタの街」として売り出しているそうです。私の知らない間に、各地がいろいろ変貌しているようです)、そのうち夜行バスに乗りたいと言い出しました。何年か前に、往復夜行バスでひとりで五所川原に出かけたのが楽しかったようです。
 高崎では昼行の高速バスでも東京から2時間ちょっとで着いてしまい、近すぎて夜行バスは設定されていません。少なくとも5時間はかかるところでないと、夜行にはならないようです。東京からだと、いちばん近くて静岡福島柏崎くらい、名古屋仙台がそれに次ぐ感じです。
 私がそう説明すると、マダムはあっけなく高崎パスタをひっこめ、仙台を選びました。なんとなく東北に惹かれるものがあったようです。
 それもそのはずで、マダムは幼少の頃、父親の仕事の都合で、青森県のむつ市や、宮城県の矢本町(現・東松島市)に住んでいたことがあるのでした。むつ市のことは幼すぎてあまり憶えていないようですが、矢本には幼稚園から小学校低学年にかけて住んでおり、言ってみれば彼女の最初の「自分の記憶」が残る土地であるわけです。
 調べてみると、仙台を経由して石巻まで行くバスがあることがわかりました。矢本というのは石巻に近く、マダムはスクールバスに乗って石巻市の幼稚園に通っていたそうです。
 ネットで調べると、その幼稚園も、そして矢本で通った小学校も、石巻駅や矢本駅からさほど遠くない場所にありました。これなら「マダムの幼い頃の記憶を巡る旅」というものができそうだと思いました。
 それに若干観光を加え、そしてマダムの希望により入浴の時間もとり、夜行バスで行って夜行バスで戻る強行軍のプランを立てました。旅行業者なら0泊3日とか称する行程でしょうか。

 新宿高速バスターミナル23時30分発の宮城交通バスに乗車しました。あまり長距離ではないので、出発もだいぶ遅くなっています。
 満席ではないものの、かなり乗車率の良いバスでした。仙台行きの寝台急行「新星」が廃止されてすでに久しく、その他の東北夜行列車も全滅した現在、仙台に朝に着こうとすれば、こういうバスを用いるしかありません。
 最近の夜行バスの標準型と言える、リクライニングの深いハイデッカー独立3列シートでした。ただ、リクライニングを最大にかけると、後ろの座席の客は身動きしづらくなるのが弱点で、ついほどほどの傾きにしてしまいます。私の前の席の女性は早々と最大リクライニングをかけてきて(ひと声かけて欲しかった)、ただでさえ容積のある私は少々難儀しましたが、自分はやはり遠慮してしまいました。そのため腰の伸びが中途半端で、いささか眠りづらかったようです。
 眠ったのか眠らなかったのかよくわからず、しょっちゅうからだの向きを変えているうちに、やはり少しは眠ったようで、仙台に着いていました。カーテンの隙間から見えたフロントガラス越しに、牛めし屋「松屋」の黄色い看板がぼんやりと光っていました。
 石巻までは一般道(国道45号線)ですが、この間でも少しうとうとしたようです。
 予定より少し早い6時20分くらいに、石巻駅前に到着しました。冬至の翌日ですから、まだあたりは薄暗く静まっています。駅だけが朝の営みを始めている時間帯でした。

 駅前に、サイボーグ003ことアルヌール・フランソワーズの像がありました。そういえば石巻は故石ノ森章太郎氏の故郷である登米市の隣町で、石ノ森氏の協力を得て「マンガランド基本構想」なるものを策定しています。街中を歩き出すと、氏の作品の像があちこちに建てられていました。石巻と仙台を結ぶ仙石線にはマンガ列車というのも走っていて、あとで実際に目撃しましたが、ロボコンゴレンジャー仮面ライダーサイボーグ009がそれぞれの車輌にペイントされていました。
 石ノ森というのは確か故郷(現・登米市中田町石森)にちなむペンネームで、本名は小野寺だったはずです。小野寺という苗字も、石巻周辺にはかなり多いようでした。
 マンガ家を顕彰して街を演出するということは、最近はあちこちでおこなわれていますが、マンガ俗悪論やマンガ亡国論などがまだ幅を利かしていた時代に育った身としては、隔世の感を覚えざるを得ません。

 石巻駅には仙石線と石巻線が乗り入れていて、両線の接続駅になっていますが、私が前にここを訪れた時には、両線の駅舎が別になっていたのを思い出します。一旦改札を出ないと乗り換えられないのでした。これは、仙石線がもともと宮城電気鉄道という私鉄だった頃の名残です。仙石線は途中でほとんど東北本線と併走するような箇所がありますが、それももと私鉄だったためでしょう。駅が統合されたのは平成2年のことで、私が統合駅を見たのは今回がはじめてのことでした。
 駅近くの洗面所で洗顔などをしている間に、夜が明けてきました。気温はそう低くなさそうなのですが、風が強いので寒く感じ、少々閉口します。そういえば前日の22日は東北地方が大荒れだったようです。一日おいた今日はまた雨から雪になる荒れた天気で、私たちは幸運にもその合間の晴れた日に訪れることができたことになります。
 まずはマダムの通った幼稚園に向かいます。マダムはスクールバスで行き来していただけなので、場所については全く憶えていませんでしたが、yahooの地図で調べると駅から2キロほどの場所にありました。
 デパートみたいな構えの市役所の横を通り、少し昭和の趣きの残る町並みを過ぎて、小さな川を渡ります。石巻線の踏切を越えて少しだけ行ったところに、幼稚園の看板が出ていました。
 以前、私が新潟県の長岡に住んでいた頃に通っていた幼稚園を再訪すると、場所は同じところにあったものの名前が変わってしまって少しがっかりしたことがありましたが、マダムの幼稚園は幸いそのままの名前で残っていました。ここにも石ノ森作品にちなむイラストの描かれた建物がありましたが、それはマダムの頃にはまだ無かったと思われます。さるとびエッちゃんかな、と思いましたが、頭の上に輪っかがついていたので、商業誌デビュー作の「二級天使」でしょう。
 マダムもスクールバスで通っていましたが、今も4、5台のバスがスタンバっています。子供の人口もそう多くない地域でしょうから、かなり広域から入園者を募らなければならないでしょう。スクールバスの運転手を相手に、前夜の「ザ・ベストテン」のことを蜿蜒としゃべっていたというのがマダムの古い記憶です。
 建物や校庭についてはあまり記憶がないようでした。それでも想い出の地を訪ねたことに満足したようだったので、私も嬉しく思いました。

 石巻駅に戻るよりは、隣の陸前山下駅のほうが近かったので、そちらから電車に乗ることにしました。
 陸前山下駅は朝夕だけ駅員の居る半有人駅ですが、プラットフォームに出ると、線路脇に堂々たる0キロポストがあったので驚きました。0キロポストは鉄道線路の起点に立てられるものですから、陸前山下駅は何かの路線の起点になっているはずです。宮電の頃に終着駅がここだった時代があり、石巻までは後から別線で作られたのかな、と思いましたが、帰ってから調べてみると、仙石線の貨物支線の起点だったのでした。JR貨物石巻港駅はここから南下した海沿いにあり、今でもバリバリ現役で活躍しています。
 仙石線の電車に乗って、14分ほどで矢本に着きます。その手前に東矢本という、国鉄最後の日に開業した駅があって、駅前に集合住宅が並んでいました。
 「ここ、官舎じゃないかな」
 とマダムが言います。マダムの父は公務員なので、矢本時代は官舎(公務員宿舎)に住んでいましたが、例によって場所についてはマダムの記憶が曖昧で、とにかく矢本東小学校まで片道30分くらいかけて通っていたということでした。この小学校は、これまたyahooの地図で調べたところ、矢本駅から線路沿いに数百メートル行ったあたりにあります。一方東矢本と矢本の駅間距離は1.4キロですから、あり得ないことではありません。ただ、家の近くに線路があったかどうかは憶えていないそうです。子供の記憶には、電車のことなどはけっこう残りそうな気がします。
 ともかく矢本駅に下りました。矢本の駅名板には航空自衛隊のブルー・インパルスの写真が鮮やかに印刷されています。ここは空自松島基地の最寄り駅で、航空祭の時には大変な混雑になるそうです。
 とりあえず小学校を訪ねました。マダムはなかなか記憶が蘇りませんでしたが、校庭の片隅にあった碑に書かれている文句を見て、急に思い出したようです。学校の周囲の道を一周し、正門らしきところまで来ると、その向かいにあったA-coopの店舗もよく憶えていると言い出しました。
 官舎からここまで、「遊歩道」を歩いて通ったと言います。近くの踏切を渡ると、まさに「遊歩道」と書かれた立て札のある道が見つかりました。
 「踏切は渡ったの?」
 「さあ……よく憶えてない」
 踏切はかなり大きな印象になりそうですが、昔は遮断機などが無かったかもしれません。とにかくその「遊歩道」を歩くことにしました。住宅の裏みたいなところを通って、かなり長いこと続いています。
 「なんだかよく夢にこんな道を歩くシーンが出てくるんだけど……ここだったかも」
 そのうちマダムがそう言い始めました。
 国道を渡るところで歩道橋が架かっていたので、その上に昇って周囲を眺めてみました。集合住宅らしい建物は、どうやらさっきの東矢本駅前にあったと思われるものしか見当たりません。しかしこの遊歩道で通ったとすると、方角が違うようです。
 この辺の詳細な地図が欲しいと思って、すぐ下に見えたコンビニに行ってみましたが、あまり役に立つものはありませんでした。とりあえず遊歩道をもう少し先に行ってみると、もう一軒コンビニがあり、そちらには宮城県内の詳しい道路地図帳が置いてあったので、早速購入しました。
 マダムの住んでいた官舎は、そのすぐ先にありました。さっきの歩道橋からは死角になっていて見えなかったのでした。マダムの記憶とも整合し、めでたしめでたしです。
 それにしてもその遊歩道は、その官舎のために作られたかのようなもので、まさに官舎のところで途切れていました。さっき買った地図帳を眺めてみると、どうもこの遊歩道、もとは線路でも敷かれていたような線形をしています。廃線になった線路の跡地が遊歩道になる例はたくさんあります。単線だと車道にするほどの幅がとれないのでした。もしかして、と思い、帰ってから調べると、まさにビンゴで、かつて矢本駅から、松島基地までの専用線が敷かれていたのです。基地は官舎のすぐ先にありますので、たぶん操車場の跡を住宅にしたものと思われます。
 マダムの記憶巡りと、私の鉄道考証趣味の両方が満足し、矢本駅に戻りました。東松島市の中心駅ですが、駅前は大した商業施設があるわけでもなく、のんびりとした雰囲気です。

 のんびりした雰囲気に浸りすぎて、危うく電車に乗り損なうところでした。このあたりは一時間に2本くらいしか走っていないので、一本乗り損なうとだいぶ時間をロスします。待合室で一息ついている間に、乗る電車が入ってきたのです。切符もまだ買っていなかったので、あわてて券売機に走りましたが、改札の駅員が
 「えっ乗るの? もう間に合わないよ。切符買ってる間がないよ」
 と叫びました。
 幸いSUICAが使えたので、切符を買うのは断念してプラットフォームに走りました。跨線橋や地下道でなく、そのまま駆け上がれるプラットフォームだったので、なんとか車掌の眼に止まり、乗ることができました。
 この電車は仙石線独特の「2WAYシート」車輌を連結していました。近鉄L/Cカー東武マルチシートと同じく、クロスシートにもロングシートにもなるという座席ですが、JRで採用しているのはここだけです。しかも全列車ではなく、限られた列車の石巻寄りの一輌だけにしか使われていないので、偶然ぶつかる確率はかなり低いので、何か得した気分でした。この時は、海側の座席はクロスシート、山側の座席はロングシートという、伊豆急リゾート21みたいな座席配置になっていました。仙石線は海岸線すれすれを走る部分があるので、これに乗ればどこに坐ってもオーシャンビューというわけですが、生憎と海側の窓には陽が当たるようで、景色などに興味のない地元利用者がすべての窓のブラインドを下ろしており、山側に坐った私たちは、ドアの部分の窓を透かして海を見るしかありませんでした。それでも、乗りたかった車輌に乗れて私は満足です。
 30分ほど乗って、松島海岸駅で下車します。松島から塩釜に抜ける遊覧船を予約してあったのでした。ネットで予約すると1割引になります。この遊覧船には、30年あまり前に乗った記憶があります。中学3年の夏休み、はじめて親と一緒でなく友達と旅行した時に確か乗ったはずなのですが、その時にどんなことを思ったか、すっかり忘れています。マダムも子供の頃に乗ったことがあるような無いような、曖昧な様子でした。まあはじめての気持ちで乗れば良いでしょう。
 窓口で切符を受けとったあと、出航まで少し時間があったので、近くの土産物屋でいろいろ買いました。昔は土産物など最低限しか買わなかったものですが、齢をとったせいか気が弱くなっているようです。他人への進物だけでなく自分の家で食べるためのものまで買ったりしているので、つい荷物が多くなります。
 出航時刻が迫ったので桟橋へ。ふと切符を見ると、「松島→松島」と書いてあります。これでは同じところへ戻ってくる船に乗ることになってしまうではありませんか。あわててさっきの窓口に行くと、おばちゃんは悪びれもせず、
 「あれ、塩釜行きのほうがいいですか」
 と言いました。「いいですか」もないもので、予約確認のメールのプリントにちゃんと書いてあったはずです。引き替えの時に確認しなかった私も悪いのですが、しっかりしてくれよと思います。
 なんとかつつがなく船に乗りました。2階席は500円のグリーン料金をとるというあこぎな船ですが、ちょうど晴れ渡った海上はとても気持ちが良く、島々も美しく映えました。30年前に乗った時、同乗していたおじさんから、
 「松島の松も、み〜んなキクイムシにやられちまって、ありゃ長くないよ」
 と聞いた記憶があるのですが、キクイムシの駆除に成功したのか、30年経ってもまだ松は青々しており、安心しました。

 50分ほどの船旅を終え、塩釜港に到着します。ここでマダムが、七五三のお参りをした塩竈神社にも立ち寄ってみたいと言い出したのですが、港の売店でいささか時間を使いすぎ、神社まで行っている暇は無さそうです。なんとか近くまで行ってみましたが、なにせ陸奥一の宮の格式を持つ神社だけに敷地も広大で、しかも丘の上にあり、なかなか辿り着けそうにありません。電車の時間が迫ってきたので、残念ながら途中で引き返しました。地図上ではそんなに遠からず見えたのですが、本塩釜の駅から徒歩15分くらいかかるそうで、港からだとその倍くらい見なければいけなかったようです。港のタクシープールに停まっていたタクシーを拾えば良かったとあとになって思いましたが、もう仕方がありません。
 本塩釜からはまた仙石線で一路仙台へ。快速だったので、途中は多賀城にしか停まりません。もっとも仙石線の快速には2種類あって、B快速(緑快速)と呼ばれるほうは多賀城から各駅停車になってしまうのですが、幸い乗ったのはA快速(赤快速)でした。
 仙石線の名前は、仙台と石巻を結ぶところからつけられたので、片方の端はもちろん石巻なわけですが、もう片方は仙台ではありません。しばらく前までは仙台止まりでしたが、2000年にもうひと駅延びて、あおば通が終点(起点)になりました。仙台駅からは地下街が通じているくらいで、ごく近い駅間ですが、繁華街まで延びたことで便利になりました。
 実はこの延伸、宮城電気鉄道時代に計画されていたことで、宮電は国鉄の仙台駅を突っ切って西口側に路線を延ばすため、仙台駅を地下に設置したのでした。地下を走る鉄道としては東京の銀座線よりも早く、なんとこれが日本最初の地下鉄道です。しかし残念ながら、西口側まで掘り抜く予算がとれず、仙台地下駅がターミナルとなっていました。
 あおば通延伸は、その宮電の怨念が実ったようなものですが、地下トンネルはもちろん宮電時代のものではなく、新しく掘られたものです。陸前原ノ町までの長いトンネルとなりました。
 私が仙台〜あおば通の区間を未乗であったこともあり、またこのあと青葉城まで歩いてゆく予定だったこともあり、仙台では下りずにあおば通まで乗り通しました。

 朝早くから活動していたので、ここまで来てようやく昼食時です。少し遅めの13時になっていました。昼食は仙台で牛タンを食べようということになっていました。牛タンの店をyahoo地図で検索したら、仙台駅附近と言わず、あおば通駅附近と言わず、そこらじゅうに点在していたのですが、いざ歩いてみると案外見つかりません。そのうちマダムは空腹が耐え難くなったのか、
 「牛タンなら東京でも『ね×し』で食べるから、他のものでいいよ」
 と言い出しました。
 なだめながら商店街を歩き、ぶらんろーど一番街でようやく発見。というより、店のすぐ前で店員が手刷りのクーポン券を配っていたのでわかった次第です。クーポンの「500円割引」のほうは、定食などには使えないということでしたが、ドリンク無料のほうは有効だったようなので、迷わずにその店に入りました。
 マダムはその店の、牛タンの分厚い切り方に感動したようでした。「×ぎし」のあの薄さはなんなの、と、先ほどの言葉を忘れたような毒舌を吐いていました。
 食事のあと、青葉城まで散策。前にひとりで歩いたことがあるので、歩けることは確かだと思っていましたが、距離よりも途中の坂がかなり急で、腰が悪くて上り坂の苦手なマダムにはきつかったようです。それと、青空が見えているのに雨が落ちてきたのには閉口しました。
 あらためて本丸跡への道をたどりながら、62万石程度の大名が、これほどの巨城をよく築けたものだと感心します。うまいこと地形を利用しているとはいえ、百万石以上の大大名(江戸時代には加賀藩しかありませんでしたが)にふさわしい結構だと思います。当時の石高を現在の企業の年商や資本金に比定するのはあまり妥当でないかもしれませんが、石高62万石なら実収はせいぜい30〜35万石といったところでしょう。その頃の1石にたとえ今の20万円くらいの価値があったとしても、600〜700億円といったところ、本社ビルにこれだけの手間と費用をかけられたものだろうかと首を傾げました。
 また、江戸時代の伊達藩の武士は、毎日この急坂を登って本丸に登城していたわけです。楽ではないなと苦笑がちに思いました。
 青葉城は明治まであまり形を変えずに存続していましたが、バカな役人が破却してしまったそうです。今は二の丸も本丸も何も残っていません。ただ、明治まで残っていただけに資料は多く、今ではCGで当時の様子を再現することができます。本丸跡の資料展示館で見られます。
 本丸跡には伊達政宗の有名な騎乗像の他、日清・日露戦争の戦死者を悼むために作られた、巨大な鳶(トビ)が上に乗った昭忠塔、それに土井晩翠「荒城の月」詩碑があります。晩翠はこの青葉城をイメージして「荒城の月」を作詩したのでした。もっとも作曲者の瀧廉太郎のほうは、自分の故郷である豊後の竹田城をイメージしたのですが、明治以来日本中のお城が片端から破却されたことを思えば、歌う者もそれぞれの故郷の廃城をイメージするということで差し支えなさそうです。

 「るーぷる仙台」という、仙台市内を巡回するレトロバスがあるのですが、それに乗って仙台駅に戻りました。普通の路線バスに乗れば一挙に戻れるのですが、せっかく仙台に来たので、こういう観光用バスに乗って街を見物しようと考えたのです。
 しかし、休日の夕方の便とあって、意外と混んでおり、しかも雨がだいぶひどくなってきて、車窓から見物するような余裕がなくなりました。ただぐるりと迂回して戻ったようなものです。まあ、時間には余裕があるので、問題はなかったのですけれども。
 「どこかでお風呂に入って帰りたい」という、マダムの最後の希望を満たすべく、仙台市内のスーパー銭湯を調べてみたところ、マダムの実家近くにもある「極楽湯」というチェーンの支店があることがわかりました。ただ、駅の近くではなく、バスで30分ばかり行った場所にあります。そこに立ち寄ってから、仙台駅に戻って、帰りの夜行バスに乗る計画にしていました。
 銭湯は単独で建っているのではなく、「ベガロポリス」という施設の中に含まれているそうです。行ってみると、パチンコ屋が本体で、それに飲食店や銭湯が附属しているという感じの、構えだけはやたらと大きい建物でした。
 「モンペリエのトラムの終点近くに、こういうのあったよ」
 とマダム。確かに、外国の、ちょっと街外れにありそうな遊戯施設です。
 附属した飲食店のひとつで、軽く夕食を済ませ、2時間半ばかり入浴しました。帰りはバスがもう無いので、タクシーで最寄りの長町駅まで行き、東北線の電車にひと駅だけ乗って仙台に戻ります。
 高速バスの乗り場は、駅から少し離れていました。行ってみると少し先のほうに、未明にバスが停まった時に眼にした松屋の看板が、お帰りなさいと言いたげに光っていました。
 帰りのバスはごく空いており、リクライニングを最大にして、のびのびと寝ることができました。石巻と矢本と塩釜と仙台で、合計13キロくらい歩いたことですし、極楽湯ですっかり温まったこともあり、往路とは違ってよく眠れました。
 新宿に帰り着いたのは5時半頃。まだ夜明けは遠い時刻で、埼京線が動いていないので中央線から神田経由で京浜東北線に乗り換え、川口に着いた頃やっと明るくなってきました。
 往復とも深夜バスで、宿には1泊もしない強行軍でしたが、とても密度の濃い旅であったと思います。  

(2010.12.24.)

【後記】 この時訪れた石巻東松島は、翌年(2011年)3月の東日本大震災で壊滅的打撃を受け、見るかげもないありさまになってしまいました。特に仙石線では海に面していた東名駅が駅ごと津波で流されるという惨状になりました。今後復興されるにしても、様子はだいぶ変わってしまうのではないでしょうか。その直前に想い出の地を訪ねたのは、マダムにとって絶妙なタイミングだったと思います。

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