忘れ得ぬことども

「ドラえもん」最終回事件

 少し前の話になりますが、同人作家が描いた「『ドラえもん』最終回」に、小学館からクレームがついたというニュースがありました。要請はかなり厳しく、販売中止だけではなく、回収、ネットでの公開の中止などまで求められ、場合によっては刑事告訴も……という大袈裟なことになっているようです。
 「ドラえもんの最終回」というのはずっと以前から囁かれていたもので、

 ──すべては難病で植物状態になっていた少年・のび太の空想であった、というオチ。
 ──未来の法律が変わり、のび太の玄孫であるセワシがドラえもんを連れ帰る、というオチ。

 他にもいろいろなパターンがあったと思います。もちろん原作者藤子・F・不二雄氏とは無関係に、ファンによる一種のパロディとして語られていただけのことでした。
 今回問題となった「最終回」も、そのうちの1パターン、

 ──突然機能停止してしまったドラえもんを蘇らせるために、大人になったのび太がロボット工学者となり、ドラえもんを「作り出す」。

 というタイム・パラドックス系のストーリーを実際に作品化したというものでした。
 私もネット公開されていたのを見てみましたが、絵柄など相当忠実に原典を模写している上、ストーリーのまとめ方も感動的によく考えらていると思いました。夏目房之介氏なども絶賛していたようです。
 しかし、良く出来すぎているあまりに、今回の騒ぎとなってしまったのでした。
 評判が高くなって、同人誌としては破格の1万5千部以上を売り上げたために、小学館に目を付けられることになったと思われます。世の中に、有名作品のパロディは数多くあり、特に最近のコミックマーケットなどではパロディ同人誌(最近では「二次創作」と言われるらしい)が主流となってさえおり、そういうものを専門に置く書店も沢山あるわけですが、大体数百部売れれば大ヒットというスケールの話らしく、原典の出版社側としてはいわば「お目こぼし」していたものが、万単位の売り上げとなれば黙っていられないということなのでしょう。
 この事件について、ネット上でもいろいろな意見が交わされていました。小学館の振る舞いがヤボであるという意見が比較的多いようですが、
 「パクリで儲けたからいけない。小学館の措置は当然」
 という趣旨の意見も少なからず見受けられました。
 「パロディなら、もっとパロディとすぐわかる体裁にすればいいのに、表紙まで小学館コミックスを真似るなど凝りすぎたからパクリだなどと言われるんだ」
 という意見もありました。

 この作品は、私の見るところ、パロディの中でも特にパスティシュと呼ばれる分野で、文学、特に推理小説の世界ではおなじみのものです。
 私の愛好する随筆・小説家である内田百間が、師である夏目漱石の作品をもじって「贋作吾輩は猫である」という作品を書いていますが、この「贋作」が一般にパスティシュの訳語とされています。「吾輩は猫である」のパロディ作品としては、曾野綾子「ボクは猫よ」や、「井上版・吾輩は犬である」とアオリのつけられた井上ひさし「ドン松五郎の生活」などがありますが、「贋作〜」がそれらと異なる点は、主人公の「吾輩」が漱石の「吾輩」と同一の人格、いや猫格として設定され、原典「猫」の完全な続編として書かれていることでしょう。文体も意識的に漱石のそれに近いものにしてあり、随所に原典に関連する記述がおこなわれて、原典「猫」に親しんだ読者をニヤリとさせます。出版される時も、原典「猫」の初版本を模した装釘がおこなわれました。当時から「二番煎じ」というやや的はずれの批判はあったようですが、さすがに「盗作」(今で言うなら「パクリ」)とまで非難する人は居ませんでした。漱石の遺族(そういえば前記の房之介氏は漱石のお孫さんですが)からクレームがついたという話も聞きません。

 何より盛んなのは、シャーロック・ホームズのパスティシュです。
 ホームズのパロディというのは、ホームズ物語が「ストランド・マガジン」誌上に連載され始めて間もなく登場し、実に多くの同業者や研究者によって書かれ続けてきました。今でも書いている人はたくさん居ます。多くは、ちょっと名前を変えたりして、皮肉や揶揄を利かせたお笑いパロディとなっていますが、中には設定を全くコナン=ドイルの原典のままにし、文体なども似せ、いわば「ワトスン博士の未発表事件簿」とでも呼ぶべき作品に仕上げているものも少なからずあります。これがパスティシュです。コナン=ドイルの次男エイドリアンが、ディクスン・カーとの共同執筆で発表した「シャーロック・ホームズの功績」が有名ですが、最近では英国の女流推理作家ジューン・トムスンによる「シャーロック・ホームズの秘密ファイル」シリーズが高い評価を得ています。
 これらのパスティシュにしても、「コナン=ドイルのパクリじゃないか」などと非難する人は居ません。パスティシュというジャンルの作品として、正当に評価されています。
 パスティシュの価値は、いかに原典を詳細に研究してそれに似せられるかというところにあり、原典と見まごうばかりの出来になっていればそれだけ高評価を得ることができます。その上に、なんらかの筆者のオリジナリティや現代性のようなものが盛り込まれていればさらに善しとされます。例えば上記のトムスンのシリーズには、バイオハザード物とかサイコパス物とか、ホームズのスタイルを忠実に守りながらも、現代サスペンスに相通ずるようなネタが扱われているものが少なくないという点を評価する人が多いのです。
 モーリス・ルブラン「アルセーヌ・リュパン」にシャーロック・ホームズを登場させたのを見てドイルがクレームをつけたとか、エラリー・クイーンが編纂・出版したパロディ集「シャーロック・ホームズの災難」の発行を上記のエイドリアンが差し止めたとか、初期の頃にはいくつかトラブルもあったようですが、ホームズ・パロディ、あるいはホームズ・パスティシュというのは、今や推理小説のれっきとした一部門となっているのです。
 文学一般としても、下敷きとか本歌取りという形は昔からあります。総じて、パロディやパスティシュは決して不正なこと、無価値なこととは考えられていないのが現状と言えるでしょう。もちろん、パロディやパスティシュのほうが何万部売れようが、どこからも文句の出る筋合いはありません。

 問題の「『ドラえもん』最終回」は、パスティシュとして見れば非常に高水準です。少なくともこれを「パクリ」などと評するのは、パスティシュのなんたるかを全くわかっていない人の弁と言わざるを得ません。画風どころか表紙まで似せるという徹底ぶりもさることながら、作者の原典への愛情がとてもよく伝わってきます。内容もドラえもんを貶めるものでもなければ、ドラえもんの世界観を著しく破壊するものでもありません。パスティシュのお手本のような作品だったと思います。
 ただ問題は、マンガの世界はまだ文学におけるようなパロディやパスティシュを許容する習慣が根付いていなかったのではないかという点にあります。
 マンガは、言うまでもなく絵とセリフから成っています。セリフのほうに着目すれば文学との類縁性を主張できますが、絵のほうに着目すると、当然ながら絵画に近いとも言えるわけです。
 そして、絵画となると、これはもう贋作ということにはきわめて厳しい世界です。贋作をやらかした人間は画壇から追放されても仕方がないほどの大罪と見なされます。
 マンガの関係者の感覚は、文学よりもむしろこちらに近いのかもしれません。
 ただ、ちょっと違和感を覚えるのは、絵画の贋作がけしからんというのが、たいてい作者の名を騙ることがセットになっているような気がすることです。ゴッホは浮世絵の贋作のようなことをしていますが、むろんそれはゴッホ自身の作品と見なされており、写楽なり北斎なりがなんらかの被害を受けたとは誰も考えません。贋作が問題になるのは、ニセモノがそれっぽく描いて本物の名を騙るという場合ではないのでしょうか。
 その点を考えると、「『ドラえもん』最終回」に、もし藤子・F・不二雄の名前がクレジットされていたら、これは当然非難さるべき事態ですが、もちろんそんなことにはなっておらず、ちゃんと実際の筆者の名前が記されています。それなら何も大騒ぎすることはないように思えます。
 これがあるために実際に小学館の「ドラえもん」関連の売り上げに影響が出たというのならともかく、小学館が販売中止・回収まで要求するのはやはり行き過ぎではないかと私は考えます。ドラえもんに関してはすべて自社が独占すべきだなどと考えているとすれば、むしろけしからぬ話です。

 著作権の立場からあれこれ論じている意見も見かけましたが、これもなんとなく的はずれな気がしました。そんなことを言い出せば、世にあるホームズ・パロディはすべてアウトになってしまうはずです。西村京太郎氏も「名探偵シリーズ」を販売中止・回収しなければならなくなるでしょうし、赤川次郎氏の「三毛猫ホームズ」もダメでしょう。三毛猫ホームズは漱石の「猫」のパロディにもなっているわけですから、二重にダメということになります。
 著作権ということになると、作曲家である私にも少々関係のある話になってきますが、私は基本的に「盗作ばんざい」という稿で書いたように、盗むなら大いに、堂々と盗めばいい、法的手段に訴えたりするのは、たとえ勝訴したとしても表現者としての敗北だ、という考え方ですので、著作者や出版社が恣意的に著作権の範囲を拡張するのには反対です。先頃も松本零士氏が「著作権は永遠であるべきだ」というような発言をして物議をかもしましたが、永遠であるべきなのは著作人格権くらいであって、先祖の著作物から子孫がいつまでも金銭的利益を得るなどというのは無理な話です。
 ともあれ、パロディやパスティシュが原典の著作権を侵害しているというのは、言いがかりに近いものがあると思うのでした。

 コミケの主流が二次創作同人誌になっているような現状だと、今回のような問題は今後いくらでも起きてきそうな気がします。願わくば、同人作家のかたがたが今回の事件で萎縮してしまわれないことを。文学同様、マンガでもパスティシュが市民権を得る日が来ることを心待ちにしております。

(2007.2.26.)

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