忘れ得ぬことども

「愛のかたち〜パラクレーのエロイーズ」制作記

I

 今年(2005年)5月7日にぶんげんさんのリサイタルが開催されます。場所が名古屋なので、東京近辺のかたはちょっと無理かもしれませんが、何しろ私の曲がふたつも初演されますので、できるだけ多くの人に聴いていただきたい次第です。
 フルーティストのぶんげんさんのリサイタルではありますが、ピアノの他、ヴァイオリン、ソプラノの人をゲストに招いており、フルート曲以外のものもプログラムに入れてあります。例えばヴァイオリン曲であるエルガー「愛の挨拶」など……
 そして私の作品というのもフルート曲というわけではありません。ずっと前に書いて、あちこちに楽譜を渡していたにもかかわらず、まだ公的な場での演奏がなされていなかったピアノ曲『気まぐれな三つのダンス』がそのひとつ。ネット関係の知り合いだけでも4、5人に渡したり送ったりしたことがありますけれども、演奏会で採り上げてくれた人はまだ居なかったのでした。ぶんげんさんは一昨年(2003年)のミニコンサート・オフの時に私の17歳の時の作品『無伴奏フルートのためのパルティータ』を音にしてくれたこともあり、私の埋もれた旧作に陽の目を見る機会を与えてくれるのはまったくありがたい限りです。

 もうひとつは、今回の演奏会のための委嘱作で、本来もうとっくに書き上げて渡していなければならないのですが、実のところようやく作曲に着手したばかりという状態で、このところ恐縮しまくっています。
 どうも私は、アマチュアに頼まれた場合は相当早く仕上げるのに、プロに頼まれた場合はけっこうギリギリになってしまう傾向があるようです。前に「孟姜女」を書いた時も、海外で初演するのに、完成が出発3日前くらいになってしまい、その時の初演者からはいまだに「仕事の遅いヤツ」と見られてしまっているのでした。作曲家全般から見れば、私はかなり速筆のほうなのですが……(^_^;;
 今回こんなに遅れてしまったのは、昨年末まで忙しかったこともありますが、いちばん大きな理由は『女声合唱のためのインヴェンション』と同様、テキストの選定に手間取っていたからです。
 というのは、出演者全員による演奏にしたいというぶんげんさんの意向のため、歌を入れなければならなかったのでした。『インヴェンション』のテキストと同時に探さなければならなかったので、余計に手間取ったというところがあります。

 今回の演奏会のコンセプトは「present」ということでした。
 そのテーマに即したテキストを、と考えたので、さらに難しくなりました。
 当初私は、万葉集とか古今和歌集とか、あるいは新しくは俵万智さんあたりまで、古今の和歌の中から「贈呈」という性格を持つものをピックアップして、組曲にしようと考えていました。ところが、それが容易なことではありませんでした。万葉集の全作品に当たるわけにもゆかないので、テーマ別に整理した解説書などをいくつも手に取ってみたのですけれども、「贈呈」というテーマを立項している本はまったく見当たらず、そうこうしているうちに日が経ってしまったのでした。
 そのうち、『インヴェンション』のほうが先に方針がまとまって、そちらの作曲に専念することになったゆえ、またテキスト探しがおろそかになりました。
 万葉集だけでこれだけ手間取っているのでは、他の歌集に当たっていては、決まるのがいつになるかわかったものではありません。私は和歌という方針を捨て、もっと手慣れた分野であるモノドラマを作ることに決めました。

 ところがモノドラマとなってもまだ、題材の問題があります。
 モノドラマのテキストというのは今までのところ自分で書いていますが、まったくの創作ということは私には不得手でして、「蜘蛛の告白」のアラクネも「孟姜女」も、ギリシャ神話・中国伝承といった下敷きがあります。
 今回も下敷きになる題材をいろいろ考えたのですが、これがなかなか難しいのでした。
 ぶんげんさんも心配して、いくつか題材になりそうな物語を探してくださいましたが、残念ながらソプラノのためのモノドラマのためにはいささか不適当でした。歌うのがソプラノ歌手ですから、女性の登場人物によるモノローグという形で全体が俯瞰できる物語でなければなりません。
 さて、林光さんの「ヴィヨン〜笑う中世〜」という合唱劇があるのですが、その中に「想い出の美女たちのバラード」なる一曲が含まれています。放蕩詩人フランソワ・ヴィヨン「教えておくれ いま何処」という詩を加藤直さんが訳したものをテキストとしていますが、私は以前にこの曲を歌ったことがありまして、その中には古代から中世に至るヨーロッパ史上で話題になった、さまざまな女たちの名が登場することを憶えていました。
 半ばやけになってその楽譜をひっぱりだし、テキストをしばらく熟読したのでしたが、そのうちふと思い当たるものがあり、次には永井路子さんの「歴史をさわがせた女たち・世界篇」のページをめくりました。そして書店へ行くべく家を出た時には、心が決まっていました。いろんな本を読んでおくのはためになりますね。

 私が選んだ題材は、12世紀フランスの修道女エロイーズです。
 中世フランス最大の神学・哲学者とされるピエール・アベラールとの醜聞、そして浩瀚な往復書簡によって、女流文学史上特異な位置を占めている女性なのでした。
 エロイーズは幼い頃から修道院でさまざまなことを学び、その後伯父であるパリ司教座聖堂参事会員フュルベール(実父説もあり)に引き取られてからは、驚くべき博識の美少女としてその名が喧伝されました。しかし17歳の時、家庭教師としてフュルベール家に寄宿した、22歳齢上のアベラールと関係を持ってしまい、彼の子を身ごもります。
 アベラールの言によれば、彼は一応責任を取ってエロイーズと結婚しようとしましたが、エロイーズがむしろこれを拒否したそうです。当時の哲学者は、どういうわけだか独身でないと信用されないというところがあったようで、すでに確乎たるものになっていたアベラールの哲学者としての名声が、結婚することで低下してしまうことをエロイーズが懸念したから、ということになっています。永井路子さんは、たとえそれが本当であったとしても、エロイーズはアベラールにそういう考え方をするように仕向けられたのだと考えておられるようです。私はちょっと意見が違い、凡人の妻であるよりは名声ある者の情婦であったほうがなんだかカッコいいという、エロイーズの若い娘らしいロマンティシズムだったのではないかと考えています。なにぶん彼女はこの時、19か20に過ぎません。
 結局、結婚はするものの、世間には秘密にしておくということで話がまとまり、エロイーズは修道院に戻ります。他に求婚者でも現れると困るからでしょう。
 ところがこれに納得しなかったのがフュルベールで、いろいろ悶着があったのちに、異常な行動に出ます。なんと人を雇ってアベラールの寝込みを襲わせ、彼のイチモツを切り取ってしまったのでした。
 アベラールは当然深く傷つき恥じたものの、やはり宮刑を受けてイチモツを失ったのちに「史記」を書き上げた司馬遷同様、屈辱をバネに学究的生活に打ち込み、やがて上記の「中世フランス最大の神学・哲学者」というタイトルを手に入れるに至るわけでした。

 ところで残されたエロイーズはどうしたかというと、アベラールが建立したものの論敵たちとの関係がこじれて居られなくなった「パラクレー」という学校の管理者となりました。その後そこは女子修道院となり、エロイーズもそこの院長となって五十数歳までの生涯を過ごしました。
 その後しばらくして、アベラールは自らの苦難の半生を書き綴った手紙を友人に送るのですが、この頃の著名人の手紙というのは、一般に公開されるのが普通だったらしく、エロイーズもその手紙を入手して読むことになります。そして居ても立ってもいられなくなり、遠隔地のアベラールに対して長文の手紙を送るのです。エロイーズ31歳、アベラール53歳の時のことでした。
 これにより両者の間に往復書簡が始まります。後半はパラクレーの運営に関する事務的な内容が多くて、アベラールの考え方をわかりやすい形で示している点、哲学史的には貴重ですが文学としてはあまり面白くありません。それに対して前半、特にエロイーズの筆になる部分は、情熱的、もしくは官能的でさえあり、12世紀前半の女性の書いたものとしては非常に大胆と言うべきで、書簡文学として一大偉観を形成しています(もっとも、日本にはそれより100年ほど前に和泉式部という存在があり、情熱的な文学表現という点では上を行っていると思いますけれども)。
 このエロイーズに語らせるモノドラマを書いてみようと思い立ったのでした。

 ぶんげんさんにその旨を伝えますと、エロイーズという字面からエロな内容を想像させてしまっていかがなものかというような返事がきました。それはあまりといえば短絡的に過ぎるようですし、その一方エロな内容を想像させても一向に構わないと思いましたが、多少ぶんげんさんの意見も聞き、結局「愛のかたち〜パラクレーのエロイーズ〜」というタイトルに決定しました。これならエロイーズというのが人名であることがわかりやすかろうという配慮です。
 テキスト化するのがまた一苦労でしたが、十日ほどかけてようやくまとめ上げました。エロイーズが手紙を書き始める直前という設定です。アラクネや孟姜女の時と同様、ヒロインの心情があまりに型どおりな解釈にならないよう注意しました。なお「神様に仕えるためなどではなく」という一節はどうかと思われるかたもいらっしゃるでしょうが、実はこの点に関してはエロイーズ自身が手紙の中ではっきり言っていることです。
 これから少し根を詰めて作曲しなければなりません。

 ちなみに私の作品以外のプログラムは、上述した「愛の挨拶」、それにバッハ『音楽の捧げもの』からトリオソナタプーランクフルートソナタ武満徹の独奏フルート曲「エア」となっています。
 それにしても、この他大阪の児童合唱団からの委嘱も受けておりますし、ようやく私も全国区で活動できるようになってきたかな、と、満更でもない気分です。

(2005.2.23.)


II

 2005年も早くも4分の1が過ぎ去ってしまいました。まったく早いものですね。
 花粉症はだいぶ症状が本格化してきています。とはいえ、去年の30倍とかおどかされたわりには、この程度で済めばオンの字だという感じです。外出時に必ずマスクをかける習慣をつけたのが功を奏しているのかもしれません。また、首都圏のディーゼル車規制で空気がかなり浄化されたので症状が軽くなるという説が本当だったのかもしれません。この説を検証するには、規制がまだおこなわれていない、他の地域の大都市での症状がどうなのか、比較してみなければならないでしょうが。
 思ったほど重くならないとはいえ、眼の恒常的なかゆみや眼の周りのひりひり感、クシャミをすれば鼻水が自然に出てきて、といって鼻をかめばその刺戟でまたクシャミがという悪循環など、花粉症の典型症状はやっぱりやりきれません。最近はなるたけ外出を控えるようにしています。あと一ヶ月近くは続くことを思うとげんなりします。

 さて、外出が減っていたのは花粉症のせいだけではなく、モノドラマ「愛のかたち〜パラクレーのエロイーズ〜」の作曲に没頭していたためもあります。
 この曲に着手したことを記したのは2月23日の日誌でのことでした。草稿に終止線を引き、「Finale」に音符を打ち込み、レイアウトを整え、校正刷りを作って眼を通したのちに、委嘱者であるぶんげんさんにデータを送信したのはついさっきのことです。40日くらいで作曲したことになります。曲の規模からするとかなりハイペースであったと思います。もっとも、その前にテキストを作るのに10日ほどかけていますが……
 それにしても楽譜のデータ送信ができるようになったのは実に便利です。前作『インヴェンション』の時もこの手を使いましたが、プリントアウト、コピー、梱包、送り状の執筆、郵送、という手順がまるまる省略できます。受け取るほうも1日2日くらいは早く入手できるわけで、差し迫っている時などはこの1日2日がかなり重要になってきますので、双方にとってたいへん役立ちます。
 ちょっとだけ問題があるとすれば、楽譜中のテキストのフォントが合わない場合があることで、この前『インヴェンション』の練習を聴きに行った時、指揮者の安達陽一さんがプリントアウトしてみんなに配った楽譜では、曲名その他、私が見栄えを気にしてけっこういろいろフォントを変えておいたのが、全部MSゴシック体になってしまっていました。こればかりは仕方がないですね。

 今回のモノドラマは、歌とピアノの他、フルート・ヴァイオリンが加わるということで、縛りが強くなった面もあれば、自由度が上がった面もありました。
 縛りの面から言うと、センツァ・テンポという、拍を無視して自由に動く形が、いささか使いづらくなったことが挙げられます。フルート1本を伴った「蜘蛛の告白」ではしばしばフルートにそれをやらせましたが、「パート譜を見て演奏する人」が複数になると、少々難しいのです。

 第一章は、最後の最後までピアノが出てこないという変な構成にしてみました。楽章終了間際まで、フルート・ヴァイオリン・歌があたかも三重奏のようにからみあい続け、歌が終わったところでようやくピアノが登場、今度はどの楽器ともからまずに独奏状態で終わってしまいます。ピアノが入った編成の場合、他の奏者はピアノを基準にして合わせてゆくという習慣があるわけですが、そこをあえてハズしたのでした。吉と出るやら凶と出るやら。
 第二章は言ってみればスケルツォ楽章みたいなもので、7/8拍子という変な拍子を主体としてきびきび動きます。後半はスケルツォに対するトリオのように、なだらかな印象になります。
 第三章がいちばん重たい楽章で、しばしばかなり長大な、楽器のみによる三重奏フレーズが挿入されます。作曲時間的には、当然と言うべきか、これがいちばんかかっています。
 終章はそれまでに出てきた要素を回想しつつ、比較的安定した調性(ニ長調)へと導かれてゆきます。そのままニ長調に終止するかと思いきや、最後にもうひとひねりあったりするのですが、全体としては穏やかな曲想。31歳という(当時としては)円熟した年齢に達した女性が、過去を顧みて、その悔悟を込めて愛する人に手紙を書こうと決意する場面ですので、あまりきらびやかにはなりません。
 「蜘蛛の告白」のアラクネはたいていどの本でも「少女」と形容されているので、機織りの名人として名が知られていたことを考えれば14〜16歳くらいなものでしょう。「孟姜女」のヒロインは人妻ではあるものの、かなり若い印象がありますし、紀元前の中国の庶民であることを考えると、実は18〜19歳くらいなのではないかと思われます。その意味では、「大人の女性」を描いたモノドラマは私としてははじめてということになりそうです。

 まだこれからパート譜を作成したり、パンフレットを校正したり、リハーサルに顔を出したり、初演までにはさまざまな作業が残っていますが、とりあえず肩の荷が下りました。
 2005年の最初の3ヶ月で、かなり大きな規模の作品をふたつも仕上げたのは、われながら充実感を覚えます。
 これでひと休みできるかと言えばそうでもなく、次は大阪の児童合唱団から委嘱された作品に取りかからなくてはなりません。をを、まるで売れっ子作曲家みたいだ。
 二重合唱による合唱劇のような形態にする予定なので、これまたかなりの規模になりそうです。6月半ばくらいまではかかるかな。
 ともあれ、年頭から言っているにもかかわらず、まだ温泉に行けていない私でした。次の曲に着手する前に行ってこようかなあ。

(2005.4.1.)


III

 昨日は朝から出かけて名古屋へ行って参りました。7日に開催されるぶんげんさんのリサイタル「present」のリハーサルに顔を出すためです。私のピアノ曲『気まぐれな三つのダンス』が作曲14年目にしてはじめて公式の場で演奏されるのと、新作モノドラマ「愛のかたち〜パラクレーのエロイーズ〜」の初演が含まれる演奏会ですから、放っておくわけにはゆきません。
 特にモノドラマのほうは、フルートとピアノの他、賛助出演のソプラノ歌手とヴァイオリンを含めた4人全員のアンサンブルによるもので、これまでの合わせに際して奏者の間で意見の対立なども生まれている様子です。対立するだけの意見を作品に対して持つということは、それだけ思い入れをしていただいているということでもあり、作曲者としては実にありがたい話なのですが、そのままにはしておけません。
 おそらくほとんどの対立点は、作曲者の鶴の一声で決まってしまうと思われます。私は自作の演奏について、あまりうるさいことは言わず、むしろ演奏者がどのように料理してくれるかを楽しむほうなのですが(だから自作自演というのはあまり好きではありません)、初演についてはやはり責任を持たなければならないでしょう。学校時代に、単位を貰うためには作品提出をしなければなりませんでしたが、審査方法として譜面審査の場合と演奏審査の場合があり、後者のものについては、演奏者がミスでもすると容赦なく減点されました。

 ──演奏がまずいのは、作曲者の責任である。

 という考え方で貫かれていたようで、初演に関しては現在の私もその考え方に賛成です。
 そんなわけで、初演の本番ではじめて聴くなどということはないように心がけたいと思っていますが、今回は何しろ遠隔地であるため、そう頻繁に赴くというわけにもゆかず、かろうじて本番約一週間前の昨日になって行くことにした次第です。

 私の性癖からすると、1日に名古屋へ行ってしまえば、そのまま家には帰らず、7日の本番まであちらをふらふら、こちらをふらふらとさまよっていたいようでもあったのですが、そうもゆきません。Chorus STの本番は入っているわ、人と会う約束はあるわで、どうしても若い頃のようにはゆかないのでした。
 ともあれ今回はとんぼ返りせざるを得ない状況で、しかし例によって新幹線など使いたくはなく、昨日の朝早く出かけて東名高速バスに乗った次第です。
 バスはゴールデンウィーク中ということもあってかなり混んでいたのですが、からだがでかいことのメリットのひとつとして、私が先に二人掛け座席に陣取ってしまうと、あとから乗ってきた客は、他の座席がいっぱいになるまでは私の隣には坐ろうとしません。おかげで、窮屈そうな他の大多数の客を尻目に、私は悠々ふたり分の席を独占できました。
 道路のほうはさほど混んでおらず、バスはほぼ定刻通りに運行して名古屋インターを下りました。しかし、そこから先の名古屋市内の一般道が渋滞しています。何度も名古屋までのバスには乗ったことがあって、高速道そのものよりむしろ下りてから時間がかかることを知っていましたから、終点の名古屋駅までは行かず、途中の星ヶ丘で下車して、あとは地下鉄で合わせの会場(駅近く)に向かいました。

 余裕を見て早めのバスに乗ったため、少し時間が余ってしまいましたが、適当に潰してから合わせの会場に行ってみると、当日プログラムのひとつであるバッハ『音楽の捧げもの』トリオソナタを練習していました。ひと通り最後まで通したのち、ぶんげんさんとヴァイオリンの横田真規子さんとの間に、テンポのことなどについて意見の対立があって、しばし言い合いが続きました。なるほどこういう調子なのかと興味深く拝見しているうち、私のほうにも意見を求められたもので、もっともらしいことを言っておきましたが、最終的にはプロ同士のことですから、もちろん合意に達します。
 やがてソプラノの勝野恵美子さんが到着されて、「愛のかたち」の合わせが始まりました。
 第一楽章などほとんどピアノ抜きで進行するせいもあって、合わせにはだいぶ苦労した形跡が見られました。しかし、勝野さんの歌がテンポ感といい音程といい非常に明晰でしたので、フルートとヴァイオリンもおそらくそれぞれが歌との関係で音楽を作ってゆけば問題はなかろうと思います。
 大変だろうと思っていた第二・第三楽章が、むしろとてもいい感じでアンサンブルされていたので、私としてはかなり安心しました。
 4人で合わせるのは、当日の舞台チェック(ゲネプロとまでは行かない)を除くとあと一回だけだそうですが、楽器だけの合わせは他にも入るらしいし、いい演奏になるのではないかと思います。

 「愛のかたち」の合わせそのものの開始が予定より少し遅れていたのですが、私があれこれと注文をつけているうちにやたらと時間が延びてしまい、そのあとにピアノの小杉裕子さん相手に『気まぐれな三つのダンス』の打ち合わせを私がやっている間にほかの人たちは片づけにかかっていたものの、最初の予定より30分ほどもオーバーしてしまいました。
 広さはかなりある部屋だったのですが、換気が悪くて、最後のほうはだいぶ息苦しくなっていたようです。
 リハーサルが終わったあと、ぶんげんさんご夫妻と一緒に夕食を食べました。
 ぶんげんさんの奥様とははじめてお目にかかったのでしたが、電話では何度も話していました。というのは私の作曲が遅れがちだったもので、演奏会マネージャー役の奥様から何度も催促の電話をいただいたのでした(^_^;;
 だんだん私のほうも開き直って、他の作曲家に委嘱したら確実にもっと遅くなりますよ〜、みたいなことを言うようになったものですが、出演者たちに突き上げられて板挟みになってしまった奥様には申し訳なかったと思います。

 ご夫妻とはいろいろお話ししましたが、チケットの売れ行きが思わしくないということだったので私も憂慮しています。
 うまく休暇を取れば11連休にもなってしまうゴールデンウィークの最中、という時期が良くなかったかもしれないのですが、出演者の都合もあって動かすわけにはゆかなかったようです。
 私としても、せっかくの作品初演の場がガラガラであっては寂しいものがあります。現代音楽の作品展というのはたいてガラガラで採算も何もあったものでないのが通例ではあるのですが、私はそうした状況を是とは考えません。
 なお、現代音楽の作品展がガラガラであるのは、現代音楽そのものが敬遠されるからというより、出展作品の仕上がりがたいてい遅くて、作曲者も演奏者も自信を持って人様にチケットを売りつけることができないという理由がより大きいような気がします。演奏会のチケットを売るのは一般の商品のセールスと同じことで、売り物が得難い上物であることを売り手が信じてこそ、気魄のこもった営業ができるものなのですが、まだ出来てもいない作品を上物と信じろと言われても、普通の感覚を持った人間にはなかなか困難なのです。
 今回は現代音楽の会というわけでもありませんし、とても楽しめる、面白い内容の演奏会になると思うのですが、かなり四苦八苦している模様。目論んでいた発券数の半分くらいしかまだ出ていないそうです。私も協力はしたいのですが、何しろ遠隔地のことで、名古屋まで聴きに行ってくれとはさすがに言いづらいのでした。いや、言ってみるべきなのかな。

 ぶんげんさんご夫妻と別れたあとの行動は何も決めていませんでしたが、なんとなく高速バスの切符売り場に行って訊ねてみたら、すぐ出発する夜行のバスにまだ空席があるということだったので、それで帰ることにしました。当初は、どこかで一泊して帰るということも考えていたのですが、数日後にはまた名古屋へ赴くことでもありますし、余計な宿泊費を使う必要もなさそうです。夜行列車「ムーンライトながら」で帰ることも考えましたけれども、まだだいぶ時間がありますし、それに昔の「大垣夜行」と異なり、「ムーンライトながら」に東京まで乗るためには指定席券を買わなければならず、そうすると夜行バスより高くなってしまうのでした。すぐに出る夜行バスに空きがあるならそちらに乗ってしまったほうが良いと判断しました。
 そんなわけで「ドリームとよた号」に乗り込みましたが、このバスは名古屋を出るのが比較的早い分、尾張旭瀬戸豊田岡崎など周辺の都市を、3時間ばかりかけて大廻りして乗客を拾ってゆくという妙なルートを走ります。私の席は、1+2の構造の座席になっているうち、2席あるほうの通路側だったもので、隣席である窓側の乗客が乗ってくるか、または乗ってこないと確認できるまで、落ち着いて寝てしまうわけにもゆかないのでした。そして実際、最後の立ち寄り先である岡崎駅に至って、かなりの数の乗客が乗り込んできて、それまで空いていた私の隣も塞がったのでした。始発地からの乗客には、なるべく独立した1席のほうをあてがって貰いたいと思った次第。
 さらに夜行バスは昼行バスと同様、途中2回の休憩があります。これはどちらかというと、そのまま走ってしまうと到着が早すぎるための時間調整が目的と思われ、昼行バスより休憩時間が長かったりするのですが、私の席は乗降口に近かったのでその都度ざわざわして眼が醒めました。
 きわめて寝不足な状態で、早暁5時半頃、東京駅に戻ってきました。この時間帯なので、そこから家に帰るまでの電車がガラ空きだったのはありがたかったですけどね。
 金曜日にはふたたび名古屋へ向かうことになります。リサイタル本番、オフ会「愛・地球博」と、今度は3日続けてお楽しみがあるわけで、寝不足な状態にはならないようにしたいものです。

(2005.5.2.)


IV

 5月7日(土)にはいよいよぶんげんさんの本番。電気文化会館という建物の地下2階に「ザ・コンサートホール」というそのまんまな名称のホールがあります。地下のホールというのは珍しい気がしますが、400人ばかりの、使い勝手の良さそうな小屋でした。音響は最高のものとは言えないかもしれませんが、そう悪くもありません。
 音響のバランスをチェックするために軽く合わせるだけの予定でしたが、案外手間取り、開場ギリギリまでかかってしまいました。ピアノの調律の最終チェックは、開場後におこなうはめになりました。
 受付の手が足りないようだったので、私も少しだけ立って、花束受付などをやっていると、荒尾漆黒斎宗匠が野球帽をかぶって登場。どうも大学の先生とは思えない威儀です。
 それからちょっと座を外したのちに客席へ戻ってみると、ENAさんがいらして下さっていました。
 1日にリハーサルに顔を出すために訪れた際、チケットの売れ行きが思わしくないという話を聞いていたもので、どうなることかと心配していましたが、けっこうな客入りになっていたようです。あとで聞くと、当日券の出が予想外に良かったとか。ゴールデンウィーク中とのことで、ギリギリまで迷った末に来ることにしたという人が多かったのかもしれません。朝方まで降っていた雨が上がったのも大きかったでしょうね。出かける予定だったのに、朝の雨を見て断念し、それから雨が止んでみるとなんとなく暇で、それならコンサートにでも行ってみるか、という気持ちになった人が少なくなかったとも考えられます。
 「MIC's Convenience」のお客様としては、上記のおふたりの他、モナリザ・もういらない子さんとはっちぃさんがいらして下さいました。ご来聴下さった皆様には心よりお礼申し上げたいと思いますが、私の力で4人しか動員できなかったというのは、遠隔地でのこととはいえ、やや忸怩たる気もいたします。

 コンサートはプロローグ的な演目としてエルガー「愛の挨拶」から始まり、前半はバッハのトリオソナタ(『音楽の捧げもの』の中の)とプーランクのソナタが演奏されました。これだけでもかなりのボリュームで、すでに50分くらいかかっています。ぶんげんさん自身がMC(マイクを持ってのアナウンス)を挟みながらの進行で、ピアノや弦楽器に較べるとMCも大変なのではないかと思いました。
 後半はラフマニノフヴォカリーズののち、無伴奏フルートの曲(武満徹「エア」)とピアノ独奏曲(私の『気まぐれな三つのダンス』)が置かれました。出ずっぱりなぶんげんさんとピアノの小杉裕子さんが、それぞれ1曲分ずつだけ休めるようにしてあったわけです。そのあとでゴーベールマドリガルをはさんで、さて「愛のかたち〜パラクレーのエロイーズ〜」です。
 譜面を持ってきてはいましたが、本番の時はなるべく開かず、一聴衆として聴こうと思っていました。そうは言っても自分の曲なので、どうしても細部に耳が行ってしまうのですが……
 細部に瑕瑾がなかったとは言いませんが、リハーサルの時になかなか決まらなかったテンポ感とかバランスなどは、申し分なかったようです。ソプラノの勝野恵美子さんが相変わらずきわめて明晰に、確信を持って歌って下さったのが何よりでした。ぶんげんさんとしばしば意見が対立していたヴァイオリンの横田真規子さんも、とてもいい具合にアンサンブルして下さっていて、まずまず満足すべき初演ではなかったかと思いました。

 ロビーに、私の曲の草稿が展示されていました。
 下書きを人目にさらすというのは、身につけたままの下着を見せるようなもので、どうも気が進まなかったのですが、ぶんげんさんのたっての希望でした。
 いっそのこと「展示用の下書き」を新たに書く、つまりいわゆる「見せパン」を作成しようかとも思ったほどでしたが、その暇もなく、仕方なく書き殴っただけの下書きを渡してありました。「生パン」ですね。
 わりに好評であったと聞きましたが、こういうことはやはりこれきりにしたいものだと思います(笑)。

 アンコールを2曲やって終演した時には、もう2時間15分くらい経っていましたから、かなりの大プログラムであったことが伺えます。特に管楽器のリサイタルとしては驚くべき長さでしょう。
 ぶんげんさんは演奏だけでなく、企画一切をやっていたわけなので、さぞやお疲れだったと思います。今回はぶんげんさんの友人の画家二村潤さんの作品を舞台に飾るというような趣向もあって、その搬入や搬出にもずいぶん気を遣ったことでしょう。
 ぶんげんさん自身もさることながら、マネジメントから雑務まで一手に引き受けていたぶんげん夫人の気苦労となると、これはもう並々なものではなかっただろうと推察します。この賢夫人が居なかったら、今回のような形のリサイタルは到底開催できなかったろうと思った次第。お疲れ様でした。

 終演後、関係者の打ち上げがありましたが、知人と夕食を共にする予定があったので早々に失礼させて貰いました。お詫びすると共に、初演者のかたがたにはこの場を借りてあらためてお礼申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。

(2005.5.13.)


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