忘れ得ぬことども

足尾銅山観光

 体調がまだ本調子という感じでなく、なおかつ一日予定がない……となると、ふらりと列車に乗って出かけて来たくなるのが私のサガなのでした。体調が良くない時に何やってんだと思われそうですが、最低気分の時はともかく、少しは上向いてきたけれどいまひとつ、という時期であれば、小さな旅をしてくるのが私にとっては何よりの良薬なのです。もちろん、こんなことを他の人に薦めはいたしませんが……普通の人ならかえって悪化するだろうと思います。
 今朝はひどく早く眼が醒めてしまいまして、寝直そうとしても無理そうだったので、さっさと起き、その時点で思い立ってさっさと家を出ました。行き先も何も決めておりません。ただ、まだ本調子ではない気分ゆえ、ラッシュの電車に乗るのは避け、川口駅から大宮行きの京浜東北線電車に乗り込みました。都心と逆方向なのですいています。
 大宮に着くまでには目的地を決めていました。高崎線から両毛線に乗り継いで桐生(きりゅう)まで行き、わたらせ渓谷鐵道足尾を訪ねることにいたします。かつて日本一の生産量を誇った足尾銅山は閉鎖されて久しいのですが、そのごく一部が観光用に整備され、博物館のようになっています。ずっと前に一度行ったことがあるのですが、日帰り観光としては手頃で、またいずれ訪れてみようと思っていた場所でした。

 時間帯が早いため、高崎線には快速も走っておらず、律儀に全駅停車して行くと、桐生に着くのもだいぶ遅くなりました。大宮駅で先行の「新特急水上」を見送ったのですが、あれに乗ってしまえばよかったと後悔します。
 それでも接続は良く、桐生発10時38分、あえて昔の国鉄の客車めいたチョコレート色一色に塗ったらしいわたらせ渓谷鐵道のディーゼルカーに乗ります。両毛線の線路と分かれる直前に下新田という駅に停まりましたが、これって昔はなかったような。次の相老(あいおい)は東武桐生線との接続駅で、ちょうど東武特急「りょうもう」が通りかかるところでした。
 寝が足りないので、窓枠に寄りかかってうとうとします。寝てしまうのはもったいないのですが、それでも列車の振動に揺られながらうたた寝するというのは、旅の至福のひとときと言えます。ふと気がつくと、駅構内に温泉場がある水沼に着いていました。最近は温泉付きの駅もあちこちにできてきましたが、水沼駅はその先駆けとなったところだったのではないかと思います。
 またうとうとして、次に気づくと今度は駅構内に、客車を改造したレストランのある神戸(ごうど)に着いていました。駅の有効活用に熱心な鉄道ではあります。
 社名通り、ずっと渡良瀬川の沿岸を走るのですが、ずっと右岸を走っていたのが、この神戸の先の長いトンネルをくぐったのち、続けて鉄橋を渡り、左岸に移ります。このあたりから、河原の石がほとんど白くなり、晴れた日などは眼を射るほどに輝きます。はじめてこの線(旧国鉄足尾線)に乗った時にその河原の輝きに感動し、それ以来今日が3回目の乗車になりますけれども、毎回列車の同じ側に坐っているのでした。今日は曇天だったのでそれほどの輝きがなく残念でした。曇天だったせいでなく、私の感受性が以前よりすり減ったせいだったとしたら哀しいことです。

 この線は盲腸線にしては珍しく県境を越える路線で、起点の桐生からしばらくは群馬県なのですが、終点側の4駅だけは栃木県足尾町に属します。足尾の市街に入って最初の駅が通洞(つうどう)で、足尾銅山観光の最寄り駅なのですが、次の足尾、そして終点間藤(まとう)まではいずれも駅間距離が短く、歩いてもさしたることはありません。それで間藤まで乗ってゆきました。間藤駅は、陶芸センターのような施設と一体化していました。前はご多聞に漏れず寂しい終着駅でしたが、多少は賑わうようになったのかもしれません。
 足尾銅山観光までは2キロ余りです。通洞駅と足尾駅の間くらいに位置するものだとばかり思っていたら、通洞駅よりさらに向こう側だったので驚きましたが、それでも大したことはありません。
 こんな閑散期の平日など、ほとんど人はいないのではないかと思ったのですが、遠足の子供たちで賑わっており、さらに駐車場には何台もの観光バスが停まっていたので、おやおやと思いました。観光地としてはまあB級というところだと思うのですが、最近は本当に、まさかと思うようなところまで観光バスが乗り入れてきます。
 15分おきに出るトロッコ豆列車に乗って坑道へ入るので、それがいわばグループ分けになって、大集団に揉まれながら見て歩くということにはならなかったのが救いです。私が乗った豆列車の乗客は全部で十数人でした。
 それにしても、前に訪れたことがあるはずなのに、あたりの様子が全然記憶にないので面食らいました。あれからかなりリニューアルしたのか、それとも私の記憶力が衰えたのか。

 足尾銅山の坑道は全長1200キロほどになるそうです。メートルではなくキロですのでご注意を。東京──福岡間くらいの長さになるわけです。江戸時代初期の慶長年間から採掘がはじまり、一時衰えたものの、明治になってから古河市兵衛(ふるかわいちへえ、古河鉱業初代社長)が近代技術を投入することで息を吹き返し、日本の産銅量の40%を占めるまでになりました。
 しかしその過程では日本最初の公害事件である足尾鉱毒事件を惹き起こしたりもしました。近代史に不名誉な名前を残してしまった話ではありますが、おかげでいち早く公害対策をとることもできたわけです。
 戦後に至るまで日本有数の銅山として稼働していましたが、戦争中の乱掘なども祟って次第に産銅量が減少し、採算が取れなくなって昭和48年に閉山。
 それにしても機械化前の採掘は大変だったろうと思います。
 江戸時代はここで造銭もしていたそうで、裏に「足」の字のついた寛永通宝、通称「足字銭」は足尾で作られたものです。

 思ったより短時間で全部見てしまい、少々時間をもてあましました。
 土産物売り場で、銅製の食器や鍋でも買って行こうかと覗いてみると、なんだかどれもこれも足元を見たような高値なので断念。いや、実際そのくらいの価値はあるのかもしれませんが……
 銅には殺菌作用があるそうで、銅の水差しに入れた水は腐らないそうです。また、今日はじめて知ったのですが、緑青(ろくしょう)というのは毒性はないんだそうで。有毒だという説がどこから出たのかわからないとのこと。まあ、見るからに毒々しい感じではありますけれども。
 銅製品の強気な値段の付け方は、その辺の効能を主張してのことかもしれませんが、それにしても金銀というわけではないんですからねえ。
 施設の中のそば屋で遅い昼食を摂りました。訪れた観光客は決して少なくはなさそうなのに、そのそば屋も、他の食堂も、がらんとしています。時刻が遅いせいだけではないようで、観光バスのルートとしてこんなところで昼食を設定していないというのが主な原因でしょう。

 帰途はわたらせ渓谷鐵道ではなく、足尾町営バスに乗って日光へ出ました。足尾町と日光市は隣接していますが、両者を結んでいるバスは一日4往復だけです。日足トンネルが開通してから便利になったとはいえ、足尾は渡良瀬川水系ということもあって、栃木県よりむしろ群馬県と関係が深い土地なのでしょう。
 日光からは東武特急に乗って帰ってきました。
 目論見通り、だいぶ気分がよくなってきたような気がします。やはり私にとっては旅が良薬であるようです。

(2003.10.15.)

トップページに戻る
「商品倉庫」に戻る
「忘れ得ぬことども」目次に戻る