忘れ得ぬことども

「皇太后」という存在

 皇太后陛下が6月16日に亡くなられましたが、97歳のご高齢ということで、まずは大往生を遂げられたと言ってよいのではないかと思います。ご夫君たる昭和天皇の没後はほとんど表に出られることもなく、ひっそりとお暮らしになっておられたようです。
 それにしても97歳ということは、20世紀をほとんど最初から最後まで、日本の中枢に近いところで見てこられたわけで、お言葉の少ない中に、さまざまな想いを秘められていたのではないかと推察いたします。まずはこの激動の世紀を生き抜いた女性に敬意を持ちつつ、慎んで哀悼の意を表したいと思います。

 ところで、昭和天皇の没後ほとんど世間に出てこられなかった点については、年齢のことや、ご本人の性格もあったでしょうが、中国史などに較べ、日本史上、皇太后というものがクローズアップされたことはあまりなかったように思われます。
 「LAST EMPERORS」の唐朝の回で触れたかと思いますが、中国の家庭において母親というのは建前上実に強く、夫が先に死んだりすると家庭内の絶対者、ゴッドマザーとして君臨することになります。皇室でもそれは例外でなく、至高の存在として望んだことはなんでもかなうはずの皇帝も、母親である皇太后にだけは逆らえません。
 そして、その母親が権勢好きの女だったりした場合、往々にして皇帝は飾り物の傀儡となり、皇太后の意思ばかりが政治を動かすことになります。漢の呂太后、北魏の馮太后、唐の武則天、清の西太后などの大物をはじめとして、何かと国政の場に口を出すオバチャン方には事欠きません。毛沢東夫人の江青女史などもそれを狙った節がありますが彼女は失敗しました。

 日本史でも皇太后が重要だった時代がないわけではありません。
 平安時代は藤原氏が政権を独占していたと言ってよいのですが、一言に藤原氏と言ってもいろんな系統があり、与党内派閥のようなことになっていました。それらの間には熾烈な勢力争いがあったわけですが、頂点をきわめるためには、
  ・自分の娘を天皇の妃とする。
  ・その娘が男の子を産む。
  ・その男の子が天皇になる。
 という複雑な手順が必要でした。つまり、天皇の外祖父となった時点で、ようやく他を寄せつけない権勢をほしいままにできるというわけです。
 天皇という権威の源泉と、実際の権力の頂点との結節点が、天皇の生母、すなわち皇太后ということになり、その重要度は非常に高かったのでした。
 この時代、天皇はほとんど飾り物で、たまに意欲的な天皇がいると、自分はさっさと譲位して上皇となって権力を握るというパターンばかりでした。必然的に多くの場合天皇は幼少で、その母親である皇太后もまだ若いことが多かったようです。皇太后というと年配の女性であるイメージがありますが、この時代には10代や20代の皇太后も少なくなかったのです。
 このように重要な存在であった平安期の皇太后ですが、彼女ら自身が政治にくちばしを入れたということはまずありませんでした。天皇と同じく、皇太后もお飾りのようなものだったのです。実際にはその父親が権勢をふるうことになりますので、一種の「権力へのパスポート」というべき存在だったと言えるでしょう。

 中国の皇帝の後宮には、全国から集められた、時には素性もよくわからないような女性がたくさんいて、その中でたまたまお世継ぎを産んだ女性が、のちの皇太后になるわけです。貧民の娘が、一躍トップレディーに躍り出るというシンデレラストーリーは、中国史では決して稀なケースではありません。
 これに対し、日本の皇室はもっと潔癖で、たとえ側室といえども、由緒ある家の娘しか入れることがありませんでした。つまり、元から
 ──もしかしたら皇室に入るかもしれない。
 という可能性を持った娘として育てられておりますから、そうなった場合の振る舞い方なども、充分に教育されていたのでした。
 呂太后や西太后のような無茶な権勢をふるう女性が出現しなかったのはそれゆえでしょう。また、後宮の管理人である宦官が日本に定着しなかったのも、もともと後宮の構成員である女性たちが、教養のある上流階級の娘ばかりで、充分な管理能力があったからだという説があります。
 こういう伝統があったものですから、現在の皇后陛下がお輿入れの時に宮中がえらい騒ぎになったというのも、まあ無理はないことだったかもしれません。皇后陛下のご実家は庶民とは言えませんが、当時としては新興中産階級と言うべきクラスで、前例がありませんでした。そこを押し通して皇后を迎えられた現天皇は、やはり立派だったと言えるでしょう。

 もっとも、事実上の皇太后が世間をひっかきまわした事件なら、日本にもあります。事実上の日本国皇帝であった豊臣秀吉の死後、世継ぎである秀頼の生母の淀殿が大坂城にがんばって、ほとんど感情のままに拙劣な外交を繰り返して豊臣家を自滅に追いやったという事例があります。秀吉死後の淀殿は事実上皇太后であったと考えられます。
 淀殿は、近江浅井家の姫君として生まれたので、れっきとした上流階級の出だったはずですが、幼少にして実家の浅井家が伯父の織田信長に攻め亡ぼされ、その後母(お市の方)が嫁いだ柴田勝家も秀吉に亡ぼされ、確か16歳くらいで秀吉のもとに保護されました。こういう経歴であれば、トップレディーとしての教育などはほとんど受けていなかったことと思われますし、それでいてワガママいっぱいに育ったのも間違いないでしょう。要するにマンガに出てくるようなワガママお嬢様だったと思われます。本当の上流の令嬢というのはもっと我を抑える訓練を受けているもので、秀吉の妻妾の中では京極殿などがそうだったでしょうが、そういう従順なばかりの上流出の側室が多かった秀吉にとって、淀殿のワガママぶりがむしろ新鮮に思えただろうと想像できます。
 淀殿の例を見れば、日本女性が中国女性よりおとなしくて貞淑であるとは必ずしも言えないわけで、やはり教育というものが大事なのだという結論に達せざるを得ません。

(2000.6.17.)

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