忘れ得ぬことども

オペラとオフと小旅行

 三枝成彰氏のオペラ「忠臣蔵」が、名古屋で再演されることになり、私にも見に行かないかと事務所から声がかかりました。実は、詳しくここには書けませんが、このオペラの制作にあたっては私もいくぶん関係したのでした。
 佐藤しのぶ錦織健直野資小林一男釜洞祐子(今回は塩田美奈子さんに代わっていましたが)等々、日本を代表するような面々を揃えた豪華キャストで、美術や演出にもとてつもない費用を要するオペラなので、よもや再演の機会があろうとは思っていなかったのですが、さすがに三枝氏は政治力があって、スポンサーをかき集めて再演の運びとなったのは、何よりのことでした。
 とはいえ、名古屋くんだりまでわざわざ出かけるのは退儀な話で、最初は断ったのですが、事務所のスタッフが妙に熱心で、何度も電話をかけてきて、交通費まで支給してくれそうな雲行きになったため、
 ──そこまで言われるなら。
 と思い、5月6日(平成12年)の公演を見に行くことにしました。
 しかし、せっかく名古屋まで行ってそのまま帰ってきてしまうのももったいない気がしましたので、かなりギリギリではありましたが、「お客様の声」で名古屋周辺のお客様に呼びかけたところ、運良くENAさんが、オペラ終演後に会ってくださるとのこと。
 去年の7月のオフ会でご一緒したHassyさんにも声をかけてくれた上、連休中でご実家(名古屋の近く)に帰省しておられた炎のコンティヌオさんまで合流する運びとなり、思いもかけずまともなオフ会が成立してしまいました。
 私はその後5月7日、8日とほっつき歩いてから帰って来ました。今回はそのお話を。

 オペラの公演は午後2時からでした。新幹線で行くのであればうちを10時半頃に出れば充分間に合う計算になりますが、私は物好きにも早暁6時に出発しました。新幹線なんぞ使いたくなかったからで、東京駅八重洲口から東名高速バスに乗ったのでした。先日バスジャック事件があったばかりで、模倣犯が出ないとは限りませんでしたが、あんまり気にしません。
 連休初め頃ならとにかく、こんな時期の、朝早い高速バスなんか、がら空きだろうと思ったら、案外と乗客が多いので驚きました。私はバスの中で朝食を食べるつもりで、コンビニの冷めんを買って乗ったのですが、窮屈なバスの座席だと、がさごそと冷めんのツユをあけたり具を取り出したりするのが、なんとなく隣の人にはばかられてやりずらく、結局最後まで食べることができませんでした。途中で下りる人もいたものの、それ以上に乗ってくる人もいて、名古屋に着くまでほぼ満席状態が続いたのでした。
 高速道路は申し分なく流れていて、時間通りに名古屋インターを通過しました。ただ、長年の経験で、高速バスというものは一般道に下りてから遅れるのだということを肝に銘じておりましたので、終点の名古屋駅までは乗らず、星ヶ丘で下りて地下鉄に乗り換えました。会場の愛知芸術文化センター駅の近くなので、どっちにしろ地下鉄を使わなければならなかったのです。
 少し時間があったので、栄のひとつ手前の新栄町で下り、ぶらぶら歩きながら、途中で昼食をとろうと思ったら、そのあたりはオフィス街で、食べ物屋はろくになく、結局らちがあかないまま芸術文化センターにたどり着いてしまいました。
 何しろ冷めんを食べ損ねていたのでおなかがすいており、ならば会場の中の食堂で食べようと考えたところ、覗いてみると大変な混雑で、入る気が失せました。やむなく、腹をすかせたままで客席についた次第。
 いい席は全部売れてしまって、今回は関係者も自由席になるかも、などと聞いていたので、その覚悟はしていたのですが、受付で名乗ると、ちゃんとS席の券を渡してくれました。最前列のいちばん端っこという、多少舞台が見づらい位置ではありましたが、不足はありません。

 オペラの内容や感想は詳述しませんが、2度目の公演とあって、歌手たちがずいぶん馴れてきた印象を受けました。見ていて、ストーリーの仕掛けその他がやっとはっきり見えてきたという感じでした。やはり一回だけの公演というのはあまり感心したものではないようです。
 が、馴れてきた分だけ、みんな情感たっぷりに歌うようになって、初演時のデータから割り出した予定所用時間を大幅に上廻りました。もともとむやみに長い曲で(フルスコアで600ページ以上)、途中2回の休憩を含めて3時間半を悠に超えるというものでしたが、今回はそれでは済まず、幕が閉じてみるとすでに4時間を過ぎていたのです。
 ネットフレンドの皆さんとは、芸術文化センター外で6時に待ち合わせをしていたので、これには参りました。まあ、もしかすると終演がそれに間に合わない可能性もあるということは伝えてありましたが、ともかくカーテンコールなど無視して飛び出しました。それでも10分近くお待たせしてしまったようです。

 繁華街の中にあるホテルを予約していたので、挨拶もそこそこに、とりあえずホテルのチェックインだけ済まさせて貰うことにしました。そうしたら、ホテルの隣と言ってよいような場所に、手頃な居酒屋があったので、オフ会はそこで開催することに。
 ENAさんとHassyさんは去年会ったことがありますが、炎のコンティヌオさんは初対面。それから、炎のコンティヌオさんがもうひとり、ニフティのピアノのフォーラムで知り合って、やはり名古屋の近く(岐阜の方と言ったかな)にお住まいというtoppyさんも同伴して来てくださり、5人パーティということになりました。
 toppyさんは私の楽譜(『少女追想』『TOKYO物語』)を手提げから取り出したので、びっくりしました。聞くと、
 「今日はMICさんに会えるということだったので、さっき楽譜屋で買ってきました」
 だとか。いやはや感激モノであります。お話ししてみると、「MIC's Convenience」も結構しっかり読んでくださっているようで、
 「それならROMってないで掲示板に書き込んでってくださいよ〜〜♪」
 と、ちょっとした苦情を申し上げたのでした。

 ENAさんとHassyさんは合唱団員ですし、炎のコンティヌオさんとtoppyさんはピアノフォーラムの仲間ですし、勢い音楽の話題が多くなりますが、私があえて脱線させてばかりいたようです。炎のコンティヌオさんなんかは音楽に関してもっとつっこんだ(マニアックな?)話を展開させたいようにお見受けしましたが、私はそれには乗らずアニメの話に振ってしまったり。
 そっち方面になっても、Hassyさんは相当に詳しいし、炎のコンティヌオさんも負けじとフォローしてくるし、ENAさんもかなりついてきておられましたが、toppyさんはあまり興味がない分野であったようで、あきれたように黙ってしまわれました。toppyさんごめんなさいね。
 10時を廻ってから解散しましたが、3時間半ほどが、まったくあっという間に感じられました。集まってくださった皆さん、楽しい時をありがとうございました。

 5時半起きだったのですでにかなり眠く、ホテルの部屋に戻って、おそろしく狭い浴槽で入浴してすぐ寝ました。
 翌日(7日)の予定は特に立てていなかったのですが、中京圏でまだ乗り残していたいくつかの私鉄線に乗ってみようと思い立ち、まずは東海交通事業城北線に乗るべくホテルを出ました。JR東海道線の枇杷島から中央線の勝川までを短絡している路線で、愛知環状鉄道と同じく、かつて中京環状線の一部として考えられていたルートと思われます。
 栄から地下鉄で名古屋に出てJRに乗ればいいものを、私はまたまたひねくれて、バスで枇杷島に直行できるのではないかと考え、路線系統もよくわからないままバスに乗ったのでした。持参の都市地図を見ると、途中何度か乗り換えがあるにせよ、一応バス路線はつながっているようだったので。
 ところが、市役所から西行するバスが、市内バスにもかかわらず、なんと一時間に一本という閑散路線で、当分来そうにありません。やむなくタクシーを拾ったところ、運ちゃんがJRの枇杷島駅を知らなかったので絶句しました。まず名鉄の東枇杷島駅に連れてゆかれ、ここではないと言うと次にはやはり名鉄の西枇杷島駅で停まり、ここも違うと言うとすっかり途方に暮れてしまった様子。地図を見せると、なんだかぐるぐると廻った揚句、ようやくたどり着きましたが、
 「いや〜、わたし、20年この仕事やってますが、少しも知りませんでした。こんな駅にやってくれなんてお客さん、一度もおりませんでしたわ。へぇ〜、ここがねえ。勉強になりました」
 途中でメーターを倒してはくれましたが、おかげで乗れるべき列車に乗れず、ずいぶん待たされることになってしまいました。
 それというのも、この城北線、これまた大都市近郊路線としては信じがたいほどの閑散路線で、やはり一時間一本というペースなのです。こんな本数ではほとんどものの役に立たないのではないでしょうか。駅はJRと共用で、プラットフォームも隣り合っていましたが、ひっきりなしに電車が発着しているJRのプラットフォームの様子を横目で見ながら、なんとものんびりと風に吹かれて、おれは一体何をしているんだろうと首を傾げたくなったものでした。
 新交通システムか何かだとばかり思っていたところ、普通の鉄道線で、しかももうひとつ信じられないことに非電化なのです。入ってきた「列車」は単行(一輌編成)のディーゼルカー(いわゆるレールバス)でした。客も、連休中の午前中のせいもあってかちらほらという程度で、一体なんのためにこんな路線を敷いたのかよくわかりません。駅名板のフォーマットなどはJR東海のそれとほとんど区別がつかないくらいそっくりで、ただ「JR」の文字の代わりに「TKJ(東海交通事業の頭文字)と記されているばかりでした。
 路線はほとんど全部高架で、非電化閑散路線に似つかわしくありません。15分ほどで終点の勝川に着きました。

 中央線に乗り換えればよいのですが、私は2キロあまり歩いて、名鉄小牧線の味美駅へ向かいました。小牧から出ているもうひとつの未乗路線、桃花台新交通に乗るためです。こちらは正真正銘の新交通システムで、関東で言えば山万(京成のユーカリが丘から出ている新交通システムで、ニュータウンの建設会社が居住者の便宜のために作った)みたいなもののようです。小牧線に乗り入れる地下鉄を目下建設中のようですが、今のところ小牧線は名古屋の中心部からはいまひとつ乗りずらい路線で、その途中駅である小牧も、鉄道だけで行くのは面倒なところと言えるでしょう。
 小牧に着くと、桃花台線の電車は、ちょうど間もなく発車というところでした。偶然ではなくて、これは小牧線の電車に合わせてダイヤを組んでいるためです。合わせるのはよいのですが、そのため、最近まで一時間に4本だったのを、3本に減らしたそうで、どうやら客の利用状況もいまひとつというところのようです。
 電車の中は、すべて前向き固定クロスシートになっていて、帰りは後ろ向きになるのかと思ったら、この線は両端でループしており、ぐるっと廻って常に前を向くようになっているのでした。
 これも約15分で終点の桃花台東に着きます。ニュータウンのための路線ですから、車窓は特に面白くもありません。また、終点からは引き返すしかないようです。
 小牧までは戻らずに、手前の小牧原でまた小牧線の電車に乗り換えました。もっとも、小牧まで行っていても同じ電車になったようです。

 一旦犬山へ出て、今度は名鉄で一気に下り、先日かの老婦人殺害事件のあった国府から、名鉄で唯一未乗だった豊川線を乗り潰して豊川稲荷へ。これで名鉄は完乗いたしました。JR飯田線の豊川駅は隣接しています。
 さてこれからどうしようかと考えました。豊川まで来たのだから、このまま飯田線に乗って帰途につこうと決め、窓口でなぜか長野までの切符を買いました。なぜ東京まで買わなかったかはおいおいわかります。
 飯田線の一日2往復だけの特急「伊那路」の下り列車はすでに2本とも行ってしまっていたので、鈍行に乗るしかありません。飯田線を鈍行で旅するのは、気の短い人にとってはほとんど拷問のような苦行になりかねないものがあります。なにせ戦争中に、4つの私鉄をまとめて買収して国鉄線にしたという経緯もあって、駅の数がむやみやたらと多いのです。鈍行はそのすべてに丹念に停まってゆきますので、ちょっと走っては停まり、ちょっと走っては停まり、それを蜿蜒6時間近くにもわたって繰り返すことになります。
 しかし車窓は渓谷美がなかなか素晴らしく、特に静岡県から長野県にかかるあたりは、駅の周りは川が流れているばかりで人家ひとつ見当たらないというような場所もあり、ローカル線気分を満喫できるのも事実です。私はもう乗るのは4回目になります。
 途中の飯田あたりで一泊しようかとも考えましたが、思い直して、松本まで出てしまうことにしました。
 以前は長時間停車をあちこちで平気でやっていたものですが、JRになってからダイヤが合理化されてあまりそういうことがなくなり、松本のホテルを予約するために電話をかけられるだけの時間がとれるのは中部天竜駅だけでした。
 駅構内には電話がなく、一旦改札を出て駅舎の外の電話ボックスでかけましたが、この時あいにくひどい大雨が降っていて、たったそればかり外に出ただけなのに、ずぶ濡れになってしまいました。
 が、走ってゆくうちにその雨もやみ、雨上がりの素晴らしい光景を見ることができたのは眼福というべきでしょう。伊那谷を囲む山々のあちらこちらから、白く煙る水蒸気が立ち昇るさまは神々しいほどで、景色というものはピーカン天気に限ったものではないのだなということをつくづく実感しました。

 天竜峡で乗り換えになりましたが、接続は良く、そのまま先へと進みます。険阻な伊那谷を抜けて飯田市に入ると、車窓は比較的平凡になります。それから間もなく陽も暮れてくるというタイミングだったので、まずはよかったと思います。それにしても戦国時代の武田信玄やその子の勝頼は、今通ってきたルートを何度となく往復したのだから、考えてみれば大変な苦労だったでしょうね。
 飯田線の終点は辰野ですが、列車は中央線の岡谷まで乗り入れますので、そこまで乗ってから乗り換えました。松本着20時25分……。

 8日の朝は、まず松本電鉄新島々まで往復。新島々は上高地へ向かう基地のような駅で、そこまで行ってただ折り返してくるのはなんとなく気羞しいものがありましたが、先を急ぎますのですぐ戻ります。
 なぜ先を急ぐかというと、そのあとに乗る篠ノ井線で、姨捨(おばすて)の絶景を満喫したかったからなのでした。トンネルを抜けて高台に出て、眼下はるかに広々と街を見下ろす姨捨の景色は、JRの車窓の中でも白眉のひとつとされています。何も急がなくても、篠ノ井線に乗ればいつでも見られるだろうと思われるかもしれませんが、姨捨駅を通過する列車だと、感激がすぐ終わってしまいます。
 実はこの姨捨駅はスイッチバック式になっていて、通過列車は駅そのものに立ち寄らずに本線を疾走してしまいます。停車する列車なら、駅が本線より高い位置だし、推進運転(後ろ向きの運転)のため比較的長時間停車するので、景色を満喫できるというわけです。そして、松本電鉄でうろうろしていると、しばらくこの姨捨に停車する列車がないのでした。
 私の乗った姨捨停車の快速「みすず」は、思いも寄らず姨捨で対向列車待ちまでおこなってくれて、絶景をすっかり堪能いたしました。

 長野に10時ちょっと前に到着。
 このあと、長野電鉄の未乗区間を乗って、また高速バスで帰ろうと考えていました。
 が、高速バスの切符をどこで買えばよいのかわからず、うろうろしているうちに長電の特急の発車時刻が迫ったので、とりあえず電車に乗ってしまいました。
 未乗区間は、長野−須坂間と信州中野−湯田中間で、特急に乗ればそのまま両方とも乗り潰してしまえます。特急電車はローカル私鉄にしてはなかなか快調に走り、1時間足らずで湯田中に到着してしまいました。
 湯田中の改札から外に出て、私は
 ──さっきバスの切符を買っておかなくてよかった!
 と思いました。
 湯田中のバスターミナルで、白根火山行きのバスが発車を待っていたからです。
 運転手に聞くと、白根火山で草津温泉方面などのバスに乗り継げるとか。このルート、考えなかったわけではないのですが、季節運行のバスで、私の持っていた時刻表には時刻が表示されていなかったため、大事をとって諦めていたのでした。
 去年の秋、むくまえさんたちと草津温泉を訪れた際、白根火山まで足を伸ばそうとしたのですが、すでに道路が閉鎖されていたので諦めたいきさつがあります。そんな恨みもあるので、この機会を逃すわけには行きません。白根火山経由で草津へ出て、ひと風呂浴びてから帰るというプランがひらめき、とっさにバスの切符を買い求めました。

 バスはしばらく湯田中附近の温泉街を走り、それから志賀高原への道を辿り始めます。丸池蓮池など著名なスキー場に立ち寄り、ぐんぐんと高度を上げてゆきます。これらの地名、本当にそういう名前の池が点在しているということを、迂闊なことに今まで知りませんでした。驚いたことに、そのうちのひとつ三角池には、まだ氷が張ったままになっています。
 さらに高度を上げると、まだ1メートル近い積雪が残っていたのでびっくりしました。松本のホテルではなんだか暑苦しくて眠れなかったほどなのに。なるほど、これでは冬季閉鎖になるわけです。
 長野県と群馬県の境となる渋峠が最高地点で、標高2100メートルに達します。それからゆるやかに、しかし道路の曲折は激しく下りてゆき、白根火山の終点に到着。噴火口(標高2162メートル)までは遊歩道がついていますので、登ってきました。遊歩道の脇にも、私の背丈より高い雪が積もったままになっています。
 噴火口には不透明な緑白色の水がたまって、不気味な景観となっています。周りが不毛な荒れ地になっているせいもあるでしょう。昔はツゲの林が鬱蒼と拡がっていたそうですが、明治時代の噴火と、そのあとの亜硫酸ガスの噴出により全滅し、現在は若干の灌木と草が生えるばかりとなっています。ところどころに立ち枯れたままのツゲの残骸が残っているのが生々しい光景です。草津温泉を世界に紹介したベルツ博士は、噴火後しばらくしてここを訪れ、
 ──この景観は真の地獄だ。地獄の地獄だ。
 ──今まで地獄を描いた文筆家や画家たちが、いま私と同行していないことを私は実に残念に思う。
 などと手記にしたためています。

 さて、バスを乗り継いで草津温泉に下りました。東京に直行できる高速バスが出ていることがわかったので、バスターミナルで早速その切符を買い求め、それから町中へ出て公営浴場を2箇所ほどハシゴしました。半年前にむくまえさんたちと来たばかりなので、町の様子もすっかりお馴染みです。
 温泉でよい気分になって、高速バス「上州ゆめぐり号」に乗って帰ってきました。
 なかなか充実した3日間だったように思います。

(2000.5.8.)

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