忘れ得ぬことども

私の憲法論

 5月3日の憲法記念日のテレビを見ていたら、各政党代表者による憲法改正論議がおこなわれていました。しばらく見ていましたけれど、あまりにつまらなかったので途中で消してしまいました。政党の陳腐な主張を繰り返すばかりで、もう20年以上聞き飽きたセリフを蜿蜒聞かされているような気がしたものです。
 憲法の改正方法については、当の憲法第96条に明文化されているのだから、遠慮なくその手続きを踏めばよいではないかと思います。憲法の最後の方まで読んだ人が少ないといけないのでここに掲示しておきますと、

第九六条【改正の手続、その公布】(1)この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
(2)憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 そんなわけで、よく誤解されていますが、改憲派の議員が多数を占めたところで、改憲の「発議」ができるだけであって、その決定には国民投票が必要であるわけです。
 だから私は、遠慮なく改憲の是非を国民投票にかけろと言いたいのです。その結果是と出ても非と出ても、それは国民の判断なのだから仕方がないではありませんか。
 各政党の言い分などはこの半世紀にほぼ出尽くしていて、たいていの人は知っているわけですから、あとは国民全体の審判を問えばよいのです。事務的には厖大な作業になるでしょうが、本質的にはさして難しいことでもないはずなのに、どうしてそれをしないのでしょう。
 自分の主張が敗れるのを怖がっているのでないとすれば、どの政党も第96条をちゃんと読んでいないとしか思えません。
 また、投票者が相手陣営の政治家に踊らされるのをおそれているのだとすれば、ずいぶん国民をばかにした話です。もっとも、社会主義というのは基本的には民衆を愚民視する(エリートである党員が指導する)ことを前提に成り立っているイデオロギーなので、共産党や社民党がそう考えるのは無理もないのですが。
 共産党の志位さんは、あいかわらず
 「現行憲法にあちこち不都合な点があるのは認めるが、改憲を言う連中の本音は、第9条を改悪してアメリカの戦略に参加し、海外派兵したいというところにあるのだから、絶対に認められない」
 と言い張っていました。第9条を変えさせないために他のあらゆる不都合を座視するという姿勢も、考えてみればすさまじいものがありますけれど、これとて国民投票してみればよいのにと思います。国民の多数が第9条を変えてもよいということであれば変えればよいのであるし、変えるべきでないということであればそのままにすればよいだけのことではありませんか。いつまでもカビの生えた議論をやっている必要はさらさらないはずです。
 この憲法を作らせたGHQも、これが恒久不変の「不磨の大典」なんぞになろうとは少しも思っていなかったことでしょう。時代が変われば改正されるのも当然だと考えていたはずですし、現に当のアメリカでは頻繁に修正憲法を発布しています。
 明治憲法が「不磨の大典」とされてしまったがゆえに、昭和初期の統帥権干犯問題に対応できず、ずるずると軍部の独走を許してしまった過ちを繰り返すのはどうかと思います。適当な時期に改憲をおこなって、内閣による統帥権(つまりシビリアンコントロール)の確立、あるいは少なくとも内閣総理大臣の権限の確定(なんと、明治憲法には首相の規定がどこにもなかった)をしておけば、戦争ももっと早いうちに収拾できるか、全く起こらずに済んだのではないかと言われているのです。
 どうも日本人は、昔から憲法改正には二の足を踏むたちだったようです。考えてみれば、奈良時代に制定された律令が、武家政権の発生により全く有名無実になりながら、幕末までの千数百年間、廃止も改正もされずに続いていたというあたりにも、その萌芽を見ることができるようです。
 日本人のこういう体質を考慮せず、やたら速成で憲法を作らせてしまったGHQは、いささか勇み足であったような気がします。

(2000.5.5.)

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